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すべては相応しく与えられている



ジイジは昔、木の花ファミリーを始めた頃に畑で作物を作っていました。畑へ行って土を耕して、種を播いて、野菜を育てたりしていました。畑では、植物はもちろん、動物や、土や、雨や、風や、いろいろなものに出会います。そこで、人間以外のものはウソをつきません。だから自然の中で生活していると、とても心が穏やかでした。それは、疑わなくてもいいからです。
でもそこに、ジイジを訪ねていろんな人がやって来ます。そして人間が来ると、その場にウソができるのです。そういったウソをつく人間から勉強できることは、あまりありません。自然の中で畑を耕していると、例えば作物の出来が悪ければ、それは土が間違っていたり、気候が合わなかったり、どこに原因があるのかを正直に教えてくれます。たくさん収穫しようと思って肥料をたくさん入れると、作物は病気になります。自然は、いつも正直に人間のやっている間違いを教えてくれます。自然は絶対にウソをつかないのです。
だけど人間は自分に都合のいいようにものを考えるから、ウソをつきます。大人は子どもに「ウソをつくな」と言いますね。それは子どもがウソをつくからです。でも実は、大人の方がもっとウソをついています。そういった経験があるから、大人は子どもに「ウソをつくな」と言うのです。つまり、人はみんなウソつきだということです。
そこで大事なのは、自分がウソをついている時に、ウソをついていることをわかっていることです。それは、自分が間違っていることを振り返る心があるということです。

ウソをつくと、それは本当のことと違いますから、生きていると必ずその間違いの結果が自分に返ってきます。欲が深い人は、畑で種を播くと、まだ作物が育つ前からたくさん収穫することを考えます。たくさん採るためにはたくさん肥料を入れて大きくしよう!と思うのです。でもそれは、作物のことを考えていません。その人が欲をかいた分、作物は病気になって、本当のことを教えてくれるのです。
ウソも同じです。ウソをつく時には、それを言うことでいいことがあると思っています。だからウソをつくんでしょう?でもウソをつくと、必ず自分が思っていたことと反対の、都合の悪いことが起きます。そこで、ウソをつくのはよくないな、ということを学ぶのです。ということは、みんなはウソつきの練習をしているのです。そのために、そういった仕組みがあるのです。

たくさんウソをつくと、たくさん困ったことが起きるよ。ウソつきの頭をたくさん働かせると、ウソつきの人になっていきます。でもウソをつくのは、ウソつきになるためではなく、ウソをつくとどうなるかということを勉強するためにあるのです。
その時に、自分がウソをついたことがわかっていれば、すぐに勉強ができます。ああ、あのウソがこういう結果になったんだ、と。でも自分がウソをついていることがわからない状態になっている人は、困ったことが起きても人のせいにします。だから、ウソから勉強することができません。そして本当に困った人になります。ジイジはそういう大人にたくさん出会ってきました。
ですから、そういう大人にならないように、ウソをつかないのではなく、練習のためにウソをついてください。そしてウソをつけば必ず困ったことが起きますから、そこでウソをつくとこうなるんだ、ということを勉強してください。
ジイジも子どもの頃にはたくさんウソをつきました。そしてウソをつくとまずいな、ということがわかって、だんだんウソをつかなくなりました。大人は子どもに「ウソをつくな!」と言うけれど、子どもの時にウソをついていないと大人になってからウソをつきますね。それは本当に困った人になりますから、小さいうちに練習としてたくさんウソをついてください。そしてたくさん困ってください。そしてどうして困ったのかといったら、自分がウソをついたからだということに気付いてください。そうしたらきっと、ウソをつかない人になるでしょう。



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上記はこの夏、ジイジが子どもたちに語った言葉ですが、この言葉は「自覚すること」の大切さを語っているように思えます。この世界は鏡であり、自らが発する想いや響きに相応しい出来事に出会うようになっています。そのため自らの言動を自覚していれば、出会う出来事から自分を知り、この世界の法則を知ることが出来るのです。自らの言動を自覚しておくこと。それはうそをつくか?つかないか?という表面的なことよりもはるかに重要なことだと思います。

例えば、誰かに不快な思いをしたトキ、それを正直に語ることが本当で、隠すことはうそになる。短絡的に考えるとそうなりますが、不快な思いを隠した後、自分の中でその思いを正したならば、隠したことが本当となります。例えば、相手に配慮して伝えないで様子を見ることもありますが、このトキ、伝えないという行為はうそかもしれませんが、相手に配慮する気持ちは本当です。

だから表面的な行為としてのうそ、本当よりも大切なことがあるのです。それが自分の本当を知っていること、自分の言動を自覚すること、自分の心に正直であることです。そして出会う出来事を潔くいただいていけば、自分と世界に対する認識は深まっていきます。

うそ

カタカムナで見ると「渦から逸れる」となります。渦は宇宙雲。万物を生み出す元。それから逸れる行為がうそで、だから反動として元に戻る力が働き、それが滞りとなって表れるのです。うそをつき続けることは元の渦から逸れ続けることです。すると元の心、中心を見失っていくから、自分を見失い、うそをついていることも分からなくなっていくのです。

うそに近い言葉で想像(そうぞう)がありますが、カタカムナで見ると、「逸れた渦、逸れた渦」となります。想像も中心から逸れたものであり本当ではないものです。ですが、そこから中心に戻る過程で思いがけないものを創造(そうぞう)することもあります。

そして、「嘘(うそ)から出た真(まこと)」という言葉あります。

「うそ」は本質から逸れる行為ですが、自分が中心を保っていれば、それが新たなエネルギーとなり「まこと」を生み出すこともあるのです。「まこと」とは「空間から転がり出て統合したもの」。つまりは現象化ですが、芯がしっかりしていたら、逸れる動きは転がり出る動きともなるのでしょう。

だから物事を短絡的には考えないことです。ただ自分の言動を自覚し、責任をもって出会う出来事をいただいていけば、思いもかけないことに出会います。これはすべて自らの心の反映であり、人は思惑を超えた出来事を通して本当の自分を知っていくのです。


恵みいただきます(2)

昨晩の大人ミーティングで昨年の立春正月に書いた「僕はひっくり返った」をシェアしました。「ひっくり返り」とは立脚点を自分の側から世界の側へと転換することであり、自分の側から世界を見て世界を評価するのではなく、世界の側から自分を見て自分を正していく、そんなふうに生きていくことを意味します。

この文章は僕にとってとても大きな転機となるもので、それをあらためてみんなにシェアすることでその姿勢を自分に刻み込みました。

自分の側から世界を見る。

それが多く人々の生きる姿勢だと思っています。それで自分とは何か?と思ったトキ、僕の中には「天上天下唯我独尊」と「我思う、故に、我あり」の2つの言葉が思い浮かびます。そして、これらを僕の言葉で説明すると以下のようになります。

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天上天下唯我独尊


これはお釈迦さまの有名な言葉です。すべてが繋がりあって存在するこの世界では、他が存在しなければ自分は存在しません。
だけれども、それを認識するのは「我」なのです。そういう意味では「我」がなければ、無に帰するとも言えます。


ただ我だけを尊ぶ。

だけれどもその「我」は宇宙のすべてを含んでいて、すべてのものに支えらえているのです。

君あり、故に我あり。 君がいるから僕がいる。

それが、お釈迦さまが尊ぶ「我」です。

そして時代は下って・・・



我思う、故に、我あり。(コギト・エルゴ・スム)



私が存在するのは、私が思考しているから。

自分の存在基盤を自分の思考に求めたこのデカルトの言葉は、自我による自然からの独立宣言で、他者の存在なしでも自分は存在出来るという幻想を生み出しました。

自然から独立した自我は、自然をただの物質と捉え、切り刻み利用していきます。それは自我による可能性や欲の追求で、その結果、物質文明は発展しますが、自然環境は限界を迎え、人々は離れ離れとなり、自我は孤独になっていきました。


孤独となった自我は、不足感を持ち、それを埋め合わせよう努力します。不安から必要以上に求めるようにもなります。それは自然から離れた自我の生み出す矛盾です。矛盾した努力は天の法から外れ、人が努力すればするほど社会は混乱していったのです。


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近代以降、自我は「他者の存在なしで自分が存在出来る」という幻想を持つようになりました。そしてそれを基盤にして世界を認識しています。幻想を基盤に世界を認識しているため、すべての認識は自分視点の幻想となっていきます。

自分の側から世界を見て、世界を評価し、世界に働きかける。

そのトキ見える世界は幻想です。幻想が膨らみ一人ひとりの視点に「差」が広がり世界はどんどんバラバラとなり混乱へと至ります。それが現代の多くの人々の認識であり、そんな中、人は幻想に惹かれ、幻想を求め、幻想に奔走され、幻想で苦労しているのです。だからお釈迦様は以下のように語ります。

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悟るということは「差を取る」ということ。何と何の差を取るのかというと、お釈迦様は「自分と宇宙」と言われました。自分というものに目覚めると「自我」が発生します。そして常に自らの解釈がこの世界を図っていくのです。
般若心教では・・・
「色即是空 ……ここでいさどんは般若心教のお経を唱え始めました)」
今、「無」ばかり出てきましたね。これは「ない、ない、ない、ない」と言っているのです。それは、自分という意識を持つとこの世界を自らの秤をもって図るのでこの世界と自分に差ができる、ということです。そして、自らの秤を持たないようになる、つまり図る自分がなくなれば、この世界が「ない、ない、ない・・・」と思えるようになるのです。そしてこの世界が「絶対有」であるという状態になるのです。

そこで、「絶対有」とはどのような「有」かというと、すべてが自分自身である、ということです。自分とこの世界に差がある状態を悟りとは言いませんね。人は自らの解釈に依らない境地になったときに差が取れて、この世界すべてが自分になるのです。
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天上天下唯我独尊と宣言したお釈迦様は自分をなくすことの大切さを語っています。それは自我を持つことで世界を自らの秤で図り世界と自分に差が出来るから。そしてその差が幻想であり世界をバラバラにしていくからです。自我が与えられこの世界を認識出来るようになったことは天が人間に与えた「恵み」です。その「恵み」を最大限に生かし世界の実相を認識するために自分をなくし「絶対有」を目指していくのです。

人は幻想に惹かれ、幻想を求め、幻想に奔走され、幻想で苦労しています。ですが、なかなかその幻想を手放すことが出来ません。それはその幻想がそのトキの自分にとっての「恵み」であり、そこに様々な思いや感情そして記憶がセットになっているからです。恵みと認識についてジイジ(当時はいさどん)は以下のように語っています。

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「恵み」とは生きることそのもの。人間は何かを貰った時やご利益を得た時に「恵み」と考える傾向がありますが、人は生きることにより物事を認識していきます。その認識こそ「恵み」です。先にこの世界があり、自分という個性が組み合わさります。一人一人個性的な眼鏡でこの世界を認識していきます。人間は他の生命とは違い自由が与えられ、自己実現の願望を持ちます。そして広い視野を持ち尊く生きることも出来るし、狭い視野に陥り地獄を生きることも出来るのです。それらすべてが恵みです。



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恵み(めぐみ)

カタカムナで言うと、「見えないところに大きな広がりを持つ芽が自由に満ちている」となりますが、「まわりてめくる=自転公転」の中で公転を意味する「めくる」にも繋がる言葉に思えます。つまりそれは新しいところへと動き続けるということです。

多くの人が今の恵み(認識)に執着するものですが、恵みとは本来いただくものです。それは古いものを手放し常に新しいものと出会っていくということです。なぜなら宇宙の本質は変化変容にあるからです。

だから世界の側から自分を見て、自分を正していくのです。変化変容を繰り返すのがこの世界です。その世界から自分を見ることで、世界に合わせて自分を変化させていくのです。その繰り返しの中で認識を広げ「絶対有」を目指すこと。それが僕の歩む道です。

木の花ファミリーのみんなです。


自分を鍛えて多様な愛を表現していく

Aくんが出発した日の朝、空には虹が掛かっていました。

先日、自然療法プログラム(通称:ケア)で木の花ファミリーに滞在していたAくんが新たな生活へ向けて帰宅しました。Aくんが出発する日の朝は、空に虹が掛かっていて、まるで門出を祝福しているようでした。そのAくんのケア物語が木の花ファミリーブログに掲載されています。以下、その一部を引用したいと思います。

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高校生のAくんが初めて木の花ファミリーを訪れたのは59日、不登校で昼夜逆転の暮らしを改善するためにお父さんと一緒に訪れました。

「規則正しい生活を送ること」を目標にスタートしたAくんのケア滞在は、本人のペースで進められていきました。作業へ出発する時間になっても丁寧に歯ブラシや水筒を洗い続けていたり、出発直前になって行くか行かないかを迷い始めたりして、人を待たせることが度々ありました。それでも最初の1、2週間は日中作業に出続けていたので、2週間面談の際、新たな目標として「コミュニケーションを大切にするように」ということが伝えられました。

2週間面談の場で、Aくんは自己主張を繰り返していました。そんなAくんに対してジイジからは、「今の状態を改善するためには人の話を聴くことが大切です。自分の考えが今の自分をつくったのですから、自分の考えを変え、社会に適応出来るようになっていく必要があります。」と伝えられました。

その後のAくんは休みがちとなり、半日か数時間キッチンで作業をして、あとは部屋で過ごすことが多くなりました。そして人ともあまり交流をしませんでした。日々の生活の中で出来ないことの理由探しをしていたのです。4週間面談では、そんなAくんにジイジから、「だるくなったのは、出来ないことの理由として必要なのかもしれません。」「自分の日記やなかのんがつけているケア記録を読み、そして面談音源を聴くことで客観的に自分を観るようにしていきましょう。そして自分の姿勢を振り返り、姿勢にメスを入れるように。」と伝えられました。しかし、5週間面談の際もAくんは、「病気であるほうが自分にとって都合がよい」と認めながらも、対人恐怖などの症状を訴えている状態でした。

そして6週間面談の際、ジイジからAくんに「いつも行動しない理由探しをしています。積極的にやらないことを求めています。」「このままだとやる気がないという判断になります。やる気がない人は滞在拒否することになります。滞在拒否される前に自分からやるように。このように6週間が経って、毎回同じテーマを出される人はあなたが初めてです。」と伝えられました。

その後も一向に気持ちが入らず、日記には無駄な思考やきれいごとを書いているAくんに対し、ジイジは、「余計なことは考えず無心になって動くだけです。本当は分かっています。」とコメントし、サポーターからは「こんなことをしていたら絶対に改善しません。親御さんにお金を出して貰ってそれを全部無駄にしています。行動しなければ、何を書いても無駄になります。もっとちゃんと考えたら?」と伝えられました。

その翌日からAくんは、毎日朝から作業に出るようになりました。そして7週間面談の際、ジイジからAくんに「その調子で続けて、自分で良いと思える生活を送るようにしましょう。こちらはあなたの取り組みで一喜一憂しています。あなたがしっかりと取り組むことはこちらの喜びとなります。あなたの1日の送り方が周りの人を喜ばせるのですから、自分の存在が人の喜びとなって、自分自身が誇れるようになるといいですね。みんな応援しています。」と伝えられました。

その後、しっかりと規則正しい生活を送り、人とも積極的に会話をするようになったAくん。8週間面談の際は、ケア卒業の見通しが伝えられました。ですが、Aくんの中に臆病な気持ちが芽生え、翌日の日記には、「まだケアを卒業出来るとは思えない。学校にはまだ行こうと思わないし、行く必要を感じない。」とネガティブな気持ちが綴られていました。そのためケア卒業は一度棚上げとなり、9週間面談では、ジイジからAくんに、「とにかくやる気がない。今もまわりからの評価を自分から否定して、自分で成果が上がらないようにしています。これから1週間様子を見ます。もしこの姿勢が変わらないなら滞在拒否をします。そのことを心して生活するようにしてください。日記も前向きな姿勢を表現するようにしましょう。それは嘘を書くということではなく、自分が思うことが前向きであるようにしていくということです。前向きな気持ちになるように自己コントロールし、そしてその姿勢で日記を書くようにすることを心がけましょう。」と伝えられました。

その後1週間、Aくんはネガティブにならないように心掛けて生活をしました。それを受けて、10週間面談では、9月復学の目標が決まりました。Aくんは自分から「9月」と言ったのですが、決まった途端に「やっぱり短すぎる」と言い出しました。そんなAくんにジイジからは、「余計なことを考えすぎないことです。その姿勢が、今までいろいろなことを台無しにしてきたのです。自分の考えで決めずに、自分の考えを超えて人の提案を取り入れるようにしましょう。『でも』、『けど』と言い訳を言わず、定まらない心も捨てて、スタートするようにしましょう。」と伝えられました。そしてこの日の日記にAくんは、「今日の面談を受けて割り切るしかない、決めるしかないと思った。ジイジが言うように、自分は17歳なのだから学校に行ったほうがいいに決まっている。そろそろまわりの意見を聞くときが来た。周りの指示、提案を聞こう。」と書いていました。

その後、ネガティブな感情と向き合い、それに対処する方法を自分から探求するようになったAくん。やり取りもしっかりしてきたことを受けて、731日のケア卒業、その後、9月復学を目指して長期滞在を続けることが決まりました。

11週間面談では、「今の不健康な状態になったことを父親のせいにしていた」と気づきを語るAくん。そんなAくんにジイジから、「出会う出来事は、環境も影響しますが、1番は本人の姿勢の問題です。親も完璧ではありませんし、親との間には意見の違いもあるものです。そういうことを対立や問題ごととして捉えることも出来ますが、それはある意味、困難な状況の中で自分を逞しくしてくれる要素でもあるのです。これからも人生の中ではいろいろなことがあると思いますが、それを生かしポジティブに捉えるように努力することが大切なのです。」と伝えられました。

ネガティブな思いと向き合い、ポジティブに変換することを学び始めたAくん。その歩みが続き、Aくんが幸せになるようみんな応援しています。卒業おめでとうございます。


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僕はAくんのケアサポーターとして身近なところで過ごして来ましたが、彼と共に過ごすことで多くの学びをいただきました。ケア物語にあるように、Aくんはなかなか規則正しい生活を送ることが出来るようにならずやる気も感じられない状態でした。そのような状態で5週間が過ぎた頃、ジイジから僕は以下の投げかけを受けていました。


Aくんのような人は捨ててやらなければならない。
面倒を見るのではなく。捨て切っても駄目だけれども。

具体的に「どうしろ」をいう指示があったわけではなく、ただこの言葉だけが与えられました。その後、上記の言葉を踏まえてAくんを観察し接していましたが、そこで試されたのは自分の人間性だと思っています。

僕はこの言葉を受けるまで、毎朝Aくんの様子を見に行っていたのですが、それを止めました。距離をとって部屋にもあまり戻らなくしたのです。ですが、朝しっかり起きて貰わないと困るタイミングでは見に行ったりしていました。ジイジの言葉を基本としながらも、固定せずに本人の状況や状態を見て関わるようにしました。

どうしているかな・・・とすごく気になり、放っておいたらもっと駄目になるのでは?と思えるところをぐっと堪えて距離を取り続けた時期がありました

心を留めながら捨ててやる

そのような感じで接し続けた結果、Aくんの中からやる気が芽生える瞬間に出会えました。僕はこういう関わり方が出来たことに自分の成長を感じました。例えば3年前の僕がAくんに出会ったら、イライラしてもっと感情的になって取り組みを台無しにしてしまった可能性が大きいのではないかと思っています。

今だから出来た接し方を通してAくんの心を育むと共に自分の心も育んでいきました。

Aくんの滞在が5週間を過ぎた頃、僕は「Aくんがここにいる意味はないのでは?」と感じていました。ですが、自分はそういうことを判断する立場にはないので、ただ役割に徹していました。そんな状態だったAくんが、自分と向き合うようになり、ケアを卒業し、新しいところへと旅立ちました。未来にどんなことが起きるかは分からないものです。

あの頃の自分が見ていた景色ではありえないこと、Aくんがケアを卒業し高校へ復学することが実現しました。だから今見える景色で、未来を断定してはいけないのです。そのことを実感し確認する機会ともなりました。

捨てる(すてる)

カタカムナで見ると、「二面性が極限まで達して維持されている状態」となりますが、捨てるという行為には確かに二面性があるように思えます。何かを捨てることは対象を手放すことでもあり、捨てる対象に自由を与えることでもあります。そこから何が生まれるか分からない、どちらに転ぶか分からない。そんな要素が捨てるという行為にはあります。

捨てる。

そこに心がないと、それはただの冷たい行為となりますが、そこに心があれば、大きな愛の表現ともなりえるのです。

きっと愛の表現は多様で、その源は天へと心を向けることです。自分の反応パターンから自由になれば、きっとどんどん多様な表現が可能となります。天に心を向けることでそんな自分の変化をこれからも楽しんでいこうと思っています。

ところでAくんの卒業コンサートのトキ、ジイジはAくんにこんな言葉を送っています。

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本当の自分の実力というのは、自分の正直な心を出して、その上で返ってきたいろいろな出来事を通し、それをどのように捉え、どのように前向きに進んでいくのかにかかっています。そのときに、本当の実力が出来、社会をたくましく生きていく力になります。これは、ここで決めていることなのではなく、実際に、生きるということはそういうことなのです。誰も、明日の自らの人生を読み解くことは出来ません。明日に出会うことは、今日までに出会ってきた延長にあるとは限らないのです。それが、人生というものです。

そのために、自らの予想を超えた想像の出来ないことが起きたとき、その出来事は新たなことに対する抵抗力を与えてくれていると思えば、とてもありがたいことなのです。なぜなら、それは自分を育ててもらっていることになるからです。そのように物事を前向きに捉えたら、「あれはダメだった」「これはこういう理由でダメなのだ」という言い訳は必要なくなります。そして、どんなに難しいと思われる出来事が起きたとしても、超えられないことは何ひとつありません。そこを一つ一つ取り組んでいくことによって、自分の力が身につき、生きる希望になるのです。それが、この自然療法の取り組みに対する考え方です。


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Aくんは困難に出会いましたが、それを通して自分を鍛え逞しくなっていきました。そして僕らにとってもAくんのケースは困難なケースと言えますが、それを通して僕らは鍛えられました。困難が希望、喜びへと繋がっていったのです。この姿勢こそ人類が育む必要があるものだと感じています。

貧困や格差、戦争や紛争、環境破壊。

今、世界には生きることが困難となる課題が山積みとなっていますが、それらを悲観的に捉え、対立や争い、孤立を生み出すのではなく、自分たちを鍛えてくれる要素として前向きに捉えたら、そこからきっと希望が生まれます。その希望の元に心を一つにしていけたら、みんなが成長し合える豊かな世界が実現するのだと思います。

そんな世界に向けて、これから先どんな困難に出会ってもそこから自分を鍛えて愛を表現していこうと思っています。





すべての濁りが世界の美しさの彩りとなるように。

エジプトよ。あなたは一人ではないよ。みんな民主主義に向けて努力していることを忘れないで。民主主義は専制政治に対する抵抗から始まった。専制政治は目の前の現実。だから戦おう!でも専制政治はみんな(+すべての組織)の中にあるロールでもある。みんな、時には自分や誰かに対して専制的になる。民主主義がずっと続くように。内なる戦いに踏み出そう。そして自分の中にある専制的な要素を取り除こう。そして、他者の視点を取り入れていこう!なぜって?それらはたいていあなた自身の声だから。世界から飛び出そう!そして心の奥底へ分け入ろう。一緒に戦い愛を深めていこう!

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上記は2013年8月、クーデター後の混乱の中にあったエジプトに向けたアーノルド・ミンデル(アーニー)の言葉です。当時、翻訳してFacebookでシェアしたのを久しぶりに目にしました。アーニーは「民主主義は専制政治に対する抵抗から始まったと書いています。そこで専制政治について調べてみるとWikipediaには以下のように書かれています。

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専制政治(せんせいせいじ、英語:autocracy)とは、支配者が独断で思いのままに事を決する政治である。専制支配(せんせいしはい)、若しくは専政とも称される。英語の「autocracy」は、直訳すると「我がままな支配」「自分勝手な政治」となる(auto=自分。cracy=政治、支配)。


支配者層と被支配者層とが身分的に区別されていた社会において、身分的支配層が被治者と無関係に営む統治の仕方である。

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専制政治とは支配者が好き勝手にすることです。そこから圧制が生まれ、民衆の苦しみが生まれてきた歴史があります。では民主主義は?Wikipediaには以下のように書かれています。

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民主主義(みんしゅしゅぎ、英: democracy デモクラシー)とは、国家など集団の支配者が、その構成員(人民、民衆、国民など)である政体、制度、または思想や運動

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民主主義とはみんなでみんなのことを決める仕組みですが、もしそこに好き勝手にしたい心が残っていると、一人ひとりの好き勝手が際立ち社会の分断が進んでいきます。そこから孤立や対立などの社会問題が生まれ人々は苦しむことになります。

こうやって見ると問題の本質は、政治の形ではなく一人ひとりの人間の奥にある心、「好き勝手にしたい心」であることが見えてきます。そしてそれは一人ひとりの自我(エゴ)から生まれます。だからこそ、アーニーも内なる戦いへと向かう重要性を訴えています。

自我(エゴ)

カタカムナで見ると、転がり出て発生したもの。「コ」に濁点がついているので、それが濁っているということです。濁りがエゴの本質と言えますが、人間はその心で好き勝手することで世界を汚し混乱させて来ました。

好き勝手にしたい

そんな心は誰の中にもあるものかもしれません。そして湧き上がる思いに従い何かを叶えようとします。ですが、湧き上がる思いや願いは叶えるものではなく、それを通して学ぶものです。叶う叶わないという結果に囚われずプロセスを味わい学びを深めれば、結果はどちらであっても恵みであり祝福となるのです。

その恵み、そのプロセスの中で自我(エゴ)はおのずから乗り越えられます。濁りがあるからこそ、その対比としてこの世界の美しさを認識できます。自我(エゴ)はこの世界の美しさを認識するための濁り。この事実は自分を離れたトキ、初めて見えてくることです。自分の離れたトキ、自我(エゴ)の濁りは世界の彩りとして生かさせていきます。

すべての濁りが世界の美しさの彩りとなるように。

心が変わればいつでもヒトはそんな世界が表現できるのです(^-^)

蓮と富士山(美しい蓮の花も泥の中から生まれています。)


五感や情動に「命=ミコト」を吹き込む

この夏、韓国の子どもたちが木の花ファミリーを訪れました。

8月を迎えて、木の花ファミリーではジイジから子どもたちに戦争について話をする時間が持たれました。以下のその一部を引用します。

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皆は、学校の勉強をしていますね。学校の勉強をして、将来大きくなって、大きい会社へ入って、そこで良い製品を作って、それがたくさん売れたら、お金をたくさんもらえますね。その会社が爆弾を作る会社だったら、効率良くたくさんの人を殺す爆弾を作ったら、お金をたくさんもらえるのです。

たとえば、食べ物が安全でないものなのに、皆がたくさん食べたがるようなものをたくさん作るとします。そういう食べ物はコンビニなどでたくさん売られていますね。そうすると、安全でなくても、皆がたくさん食べたがるものを作ったら、会社は儲かって、これを作った人たちは給料をたくさんもらえるのです。だから、体に良いものではなくても、人がたくさん欲しがるものを作れば、お金になるのです。そういった食べ物をいつも食べないといられない人も出てきます。これを中毒と言います。そういった中毒の人がたくさん出てくるような食べ物を作れば、会社は儲かりますね。そして、それを考えた人はお金がたくさんもらえますね。お金がたくさんもらえたら、その人は優れた人になります。頭が良い人ですね。

~ 中略 ~


今日は、戦争の話をしようと思ってこの場に臨んだのですが、戦争のほうがわかりやすいですね。人と人が殺し合って大変なことになるのです。普通の人が「私は戦争なんかしていません。悪いことは何もしていません。お巡りさんにも捕まることはありません」と言いながら、他の生き物をたくさん殺したり、それどころか、「おいしいものを作ったから食べてね」と言って、そこには添加物や毒がたくさん入っていて、そういったものを長い間をかけて食べていると、それが原因で病気になって死ぬこともあるのです。癌が発生するのは、食べ物が原因で起こることが多いのですよ。そうしたら、食べ物を作っている人が癌ができる食べ物を作り、結果、人を殺しているのです。それは、誰がやっているのかといえば、頭が良い人です。学校で勉強ができる人です。


だから、皆は一生懸命勉強して、これからはそういった人にならないように、戦争が起きないように、他の生き物に迷惑をかけないように、地球がどんどん変になっていかないように、そしてそれを直していける人になってもらいたいと思うのです。今までの人間は、結果として悪い世の中にするために生きていたのです。


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ここで話は変わって。

2005年の夏、僕はハワイ島の小田まゆみさんのところで1週間ぐらい過ごしました。そのトキ、自分自身と向き合うツールとしてDakiniカードを紹介され、僕は毎日1枚ずつ引いていました。

「自分の女性性と向き合う」

ハワイ島ではそんなことをテーマに過ごしていたのですが、その中で 48 White Lady / Mother of Pearl というカードを引いたことがとても印象に残っています。

このカードでは、顔の見えない女性が真珠を振りまいているのですが、「顔が見えない」というのは「顔を見せない」ということでもあり、彼女は隠れた状態、行為に責任を持たず、言い逃れが出来る状態を保っています。その状態で真珠を振りまいて人を惹きつけているのです。

最近、このカードをあらためて思い出しました。そして以下のようなことを思いました。

五感や情動に囚われ、五感や情動を求めると、それは欲となっていきます。食欲だったり、性欲だったり。そしてそれは時に過剰になることがあります。だけれども五感や情動の奥、ヒトとしての本質に目覚めれば、すべての行為は生きるための営みとなります。そしてそれは「命=ミコト」としての神聖な表現となっていきます。五感や情動から自由になることで、そこに「命=ミコト」を吹き込むことが出来ます。

カタカムナで見ると、「欲(よく)」とはよこしまや混沌が自由になっている状態です。そして、「命(みこと)」とは満ちて転がり出て統合したものです。

White Ladyが振りまく真珠は人の五感を刺激するものですが、彼女は顔を見せることがありません。それは魂、心の欠落した行為であるため、五感の満足だけがすべてとなり悪くすると五感の虜となっていきます。それは今の広告や宣伝で溢れる消費社会、頭の良い人がお金儲けをしている社会の姿と重なります。そこには欲、よこしまが渦巻いていますが、「命=ミコト」、満ちて転がり出て統合するものが欠けています。「命=ミコト」は常にこの世界を循環しています。みことの「と」、統合(10)は1+0=1で新たな始まりでもあります。新しいものに向かって転がり出る。それが統合で生きとし生けるものの循環を意味しているのです。

「命=ミコト」との繋がりを失った五感や情動はただの欲となり、それは他との繫がりを失い自分本位のものとなっていきます。この状態では一生懸命に努力をしても結果として悪い世の中を生み出すことになるのです。現代の消費社会は、人間をそのような状態へと絶えず誘惑していますが、それは戦争を生み出す心にもなりえます。

顔が見えない女性。それは女性性の封印を表しているのかもしれません。物質主義、効率主義、そして社会的成功を求める男性社会の中で、真の女性性は蔑ろにされ、その個性が封印され顔がなくなっていったのかもしれません。女性が持つ本質は蔑ろにされ、五感や情動の対象となっていく。White Lady はそんな女性性の状況を表現しているのかもしれません。

真の女性性とは

『天の愛を受けとる在り方であり、天に導かれながら生きていくということ。』

滝沢泰平さんはそのように述べていますが、そんな女性性の本質をすべての人々が取り戻すことが今求められています。真の女性性に目覚めたトキ、きっとWhite Ladyの顔が表れます。そのトキはきっと真珠を振りまく必要はなくなっているのではないかと思います。

凛とした美しさ。

天の愛を受け取り、天に導かれて生きるトキ、きっとそんな魂の美しさが表現されます。そのトキ、五感や情動は、「命=ミコト」の神聖なる表現となり、生きとし生けるものの大いなる循環の中に包まれ、善意と愛と調和に満ちた世界の表現となっていくことでしょう。

そのために僕は、自分の五感や情動から自由になります。


余裕がほとばしり出るような徳の積み方(2018)

一緒に暮らす木の花ファミリーのみんなです。


こうやって賑やかにしていると、人の目は表面に顕れる出来事にいきます。ですが、その奥に流れているものがあってそれは常に新しい流れを生み出し続けています。そこに目を向けていないと新しい動きには間に合わなくなっていくものです。

ロータスランドが始まり、私たちの暮らしは特に忙しくなりました。忙しい毎日を送っていると、給料を貰い生活をしている人々ならば、ストレスが溜まってきます。そのためストレスを解消するためにお金や余暇が必要となります。ですが、ここの人達は忙しい毎日を送っても疲れて眠くなるだけです。それはこの暮らしの安心感がもたらすものですが、その余裕、ゆとりのようなものを心磨きに向けていく必要があるのです。

忙しく賑やかな毎日を生み出している奥のもの、そこを緻密に見ることによって、プロセスから学び、それは自分の成長として積み上がっていきます。その成長が天の生み出す新しい流れと呼応していくのです。表面的な賑やかさにかまけて、安心感の中、ぼうっとしていると次の流れには間に合わなくなるのです。



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上記は昨年の7月、お客様で賑わっているロータスランドを眺めながらジイジ(当時はいさどん)が語った言葉です。余裕をもって、日常の奥に流れているものに目を向ける大切さを語っていますが、当時、ジイジは以下のような話をよくしていました。

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この世界は氷山なんだよね。海面から見えるのは氷山の10%だけ。残りの90%は隠れている。それで、世間が言っていることは見える部分で、それを無視するわけにはいかないが、例えば、風が北から南に吹いている時、氷山は別の方向に動くことがある。それはなぜか?奥にある海流が別の方向に流れているからだよね。世間の風はこっちに吹いているのに現実が違う方向に動くことがある。安倍首相がいくらデフレ脱却、実質2%、名目3%の経済成長を目標にし、日銀を利用してマイナス金利まで導入しても、それはうまくいっていない。それは時流を読んだら、今の人間社会の表面に見える人間の欲得の世界ではなくて、時代の動き、宇宙は今、何を人間に与えようとしているのかということを読んだら、安倍首相は逆をやっている。だから表面に見える社会現象をすべてとしそれに乗ることを止めなければならない。たとえ世間からは理解されなくても何か別のものを見て時代にのっていくことが大切。本当の流れは表面からは見えない海流が生み出しているのだから。



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氷山の奥、そして氷山を動かしている海流に目を向けることが大切になりますが、それを可能にするのが、目の前の出来事から自由となる余裕やゆとりだと思います。そして、余裕ということで言えば、3年前の6月、ジイジは僕について以下のように語っています。

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なかのんは真面目で一生懸命やっているが、もう少しそこに余裕があると、あの人は本当に徳を積んでいるねということなんだけど、一生懸命「この道だぁぁぁ」とやっていると、そこに余裕がないと、何とか一生懸命気合いを入れてそこを保っているという状態。

余裕がほとばしり出るような徳の積み方というものがある。



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この言葉を受けて、今思うことは、余裕がないと「道」ですら囚われの対象となるということです。たとえば、「執着をなくそうという志」が「執着があってはいけないという囚われ」となります。結局、「道」とは何か思い描いた理想の境地へと辿り着くことではなく、出会う出来事をそのまま潔くいただくことで変化し続ける過程なのです。宇宙が絶えず変化変容を繰り返すように、この「道」にも終わりはなく、常にプロセスの中にあります。




よゆう

カタカムナで見ると、「混沌、よこしま(よ)が揺らぎ(ゆ)渦(う)となっている」という感じでしょうか。これは一見ネガティブにも見えますが、「よ」は「世」、この世界そのものです。清濁併せ持ったこの世界を表していて、それが揺らいでいます。揺らいでいるということは固定しないということで、それもこの世界の法則そのものです。それが渦になっている状態、それが余裕(よゆう)で、「う」は星雲の渦巻きに見られるように万物発生の基本となっています。

このように見ていくと、余裕(よゆう)はこの世界のすべてを生み出すもので、余裕がないと新しい何かを生み出すことは出来ず、今あるものに追われるだけとなっていくのです。

混沌、よこしまが揺らぎ渦となっている

この一見ネガティブに見えるものを受け入れ、そこに向き合うことが余裕(よゆう)となり、そこから新しい何かが生まれるのでしょう。

徳積みも余裕がなければ、例えば使命感や義務感のようなものに追われるだけとなります。そうするとこの世界に新しい流れを生むことは出来ず、表面の出来事に右往左往することになるのでしょう。

この世界に本当の流れを生み出しているのは氷山の奥、海流です。余裕があるとその事実が見えてきます。そして、その流れと共にあることで、この世界に新しい流れを生み出すことが出来るのです。

ジイジから余裕を持つように言われてから3年が経ちました。

当時から比べたら、今の僕ははるかに余裕がありますが、これからさらに「混沌が揺らぐ渦・よゆう」と向きあい、余裕がほとばしり出るように徳を積み上げていきます。


混沌(4)の中に天の意志(5)を見出す





先日の大人ミーティングにて、カタカムナの「よ」と「ゆ」の思念についてみんなで深める時間を持ちました。「よ」の思念は僕の名前(よしふみ)の中にも含まれていますが、僕は3年前の10月、以下のような文章を書いています。

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僕の名前、よしふみ「よ()」は「4」であり混沌を表す思念です。

「よ」(4)は、「い」(5)の方に進めば、「よい」となるのですが、
「み」(3)の方に戻ると、「よみ(黄泉)」となり、死の世界に入っていきます。
「よ」はどちらにも転がりえる、混沌の中にあります。

「よ」がつく言葉を見ると、喜び、良い、淀み、汚れなど両義的なのはその表れでしょう。

自分の中には混沌がある。

それは確かで、その混沌が「相応しいものになっていく」や「空っぽへのあこがれ」で
描かれているような滞りを時々僕にもたらしてきました。

それは「いやなもの」に感じます。

ですが、思いは満ちた(3)後、混沌(4)の中で広がり、
意志(5)の元、この世界に位置(5)を得るのです。

混沌はこの世界に広がりをもたらすもので、必要なものでもあるのです。

「よ」を名前にいただいた僕は、自らの持つ混沌としっかり向き合い、
この世界に広がりと豊かさをもたらす役割をいただいているのです。

だから僕は混沌を愛する。

そう宣言し、混沌「よ」(4)の中に天の意志「い」(5)を見出し、
それらが描く未来を楽しんでいこうと思います。




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今、この文章をさらに発展させると、「よしふみ」の「し」は「示し」ですが、小円(〇)の位置は「い」と同じ位置で、同じような意味を持ちます。小円の位置で見ると、「よしふみ」は「4・5・2・3」となります。

よしふみ

混沌(4)を示して(5)震えて(2)満ちる(3)

にもなるし、

混沌(4)の中に示し(5)を見出し、増えて(2)満ちる(3)

にもなりますが、この違いはとても大きなものです。

混沌を示して震えて満ちたトキ、僕は以下のような状態になりました。

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中学校で勤めている時、僕は職員室の自分の机を蹴飛ばし、
そのままドアに向い、ドアを叩きつけて締めて、そのまま学校を離れました。
そして、道路を歩きながら、傘を叩きつけて、傘を壊したら、空から雨が降ってきて、
僕は濡れながら家まで5km歩いて帰りました。

僕はその頃、毎晩泣いていて、
人前でもきっかけがあると涙を止めることが出来ませんでした。

そして窓から飛び降りる衝動に襲われ、マグカップを人に投げつける衝動に襲われ、
心を静めるために一日に何回も屋上に行き、一人で佇んでいました。

なんか漫画みたいなバカな話。ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…

僕はそれぐらい自分の感情に翻弄されていました。

それはある意味、極端な精神状態への憧れでもあります。
忘我。自分を忘れるほどの熱狂、狂気。
僕の中にはその状態を求める気持ちがあり、
それが時に無理な行動に繋がり、自分を壊していきます。




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ですが、混沌の中の天を意志を見出すトキ、みんなで共に暮らし、その大事をこうして発信するようにもなります。どちらに転がる(9)かは紙一重。常に自分を離れ、心を天に向けることが求められています。

「よい」でも同様です。

混沌(4)の中に意志(5)を見出し位置(5)を得るわけですが、混沌(4)がそのまま意志(5)となり位置(5)を得ることもあり得ます。

例えば、今、経済発展は「よい」こととされていますが、それは人々をお金に依存させ、地球環境にも大きな負荷を与えることで世界はどんどん住みにくくなっています。これは混沌、渦巻く欲(4)がそのまま位置(5)を得たためだと思います。

4(混沌)は5(位置)へと進むことで「よい」となりますが、5(位置)へと進む意志(5)がどんなものによって、「よい」がもたらすものも大きく変わります。人々が欲望(4)のままに位置(5)を見出すならば、これからも「よい」とされることが世界に混乱をもたらしていくことでしょう。だから今、人々は自分を離れ、天の意志(5)に自らの位置(5)を見出す必要があるのです。

4+5=9、「9」は飽和安定(8)を超えて転がり出る思念であり、統合(10)という現象化をもたらす思念です。混沌(4)に位置(5)が加わることで、世界は転がり出し(9)、現象化(10)しますが、その要(カナメ)となるものが、意志(5)なのです。

明日、8月6日はアメリカが広島に原爆を投下した日です。大きな被害や悲劇、苦しみをもたらした原爆投下ですが、当時のアメリカ軍は「よい」ことしてそれを行いました。そのためアメリカの中には今でも「原爆投下は必要なことだった」という意見があると言います。それは意志が自らの視点に偏り、全体性を失っている証と言えます。

天に心を向け、天の意志に自らの位置を見出す。それは自分を離れ全体性へと心を開いていくことです。混沌の中に天の意志を見出し、この世界の光(ヒカリ)の一つ(ヒトツ)となっていこうと思っています。






腹で落とし込んでから理解し、それを天へと還す

最近、こんな文章に出会いました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

「いはおとなりて」

この部分の解釈にも、完全解釈まで
九つの段階があります。

ここでは、
解釈するための最初の基礎を書いておきます。

さらに深く読み解くための指標となるからです。

「い」は「お」となりて

とはどういうことか。

古代から言霊は、多くの霊的な力を使う時に利用されてきました。

そして、
言霊の配列の差異によって、
宇宙の構造から精神の構造までが大きく異なる影響が生まれてきます。

日本語の五十音には数多くの配列が知られています。
現在一般的な現代音図「あいうえおかきくけこ・・・」の他にも、
天津菅麻音図、
天津太祝詞音図、
宝音図、
布斗麻爾音図など
いろいろあり、

それぞれの図で示される宇宙観や仕組みは異なりますが、
各々に魂の学びに必要な意図が込められています。

例えば、
「いろは」の歌は、
神から人へ伝えられる神示であり、

「ひふみ」の歌は、
人から神へ捧げる祝詞です。

瞑想と祈りのような関係にあります。

「いろは」には
神からのエネルギーを調律する作用もあるため、
古来から唱える人も多く、
ほとんどの人には意味は理解できずとも大切に残されてきました。

「いろは」も「ひふみ」も
どちらの内容も深淵であり、
普遍意識から読み解く必要があります。

このように
言霊の順序を変えるだけで、
諸力に働きかけることが可能となり、
大きくその力を利用できるようになります。

現在のところ、
ことのは(言葉)、

言霊の真の力を
本当に理解する人はまだあまりいません。

だから「君が代」の真の意味も封印されてきたのです。

現代五十音図の「あいうえお」の順では、
魂の学びの場を作るために、
あえて
宇宙の理がストレートに人に伝われないよう意図的に工夫されてきました。

そして、
新しい世界では「あおうえい」で表される宇宙の摂理に沿った世界へと移行します。

「あいうえお」の
「い」と「お」が入れ替わると
「あおうえい」
になります。

これが
「い」は「お」となりて。

そして、
このエネルギーシフトは、、
宇宙だけではなく、
個人の霊的覚醒も照応しています。

ヨガでは、
霊体脊髄を通して生命エネルギーを昇華していきます。
この時に利用する言霊は、
「あおうえい」です。

ヨガでは
実際にこの音霊を
エネルギー昇華の時に利用する技法が存在します。

この順序でなければなりません。

この順序であれば
人は
人体の中で最も動的な生命エネルギーの一つである性エネルギーを
昇華することが可能となり、

それによって
高次の意識状態へと導かれます。

つまり
物質世界に重点をおいた「あいうえお」では、
エネルギーの昇華は出来ないのです。

エネルギーは
留まっていることはできません。

下に放出するか
上に昇華するか。

人も
宇宙も
「あいうえお」の順序から
「あおうえい」へと移行することで、
スムーズにエネルギーの昇華が起こります。

地球は、
今回の物質次元での大きなサイクルを完了すると
新しいエネルギー領域でのサイクルに入ります。

そこでは、
初級段階の学びを終えた魂たちが、
さらに新しい魂の進化過程に入ることになります。

すでに
霊的覚醒を促進させる光が地球に降り注ぎ始めていて、
それは次第に強さを増しています。

その光によって、すべての生命の波動が上昇し始めています。
この高次の光によって、
私たちの感受性は増していきます。

それによって
目が覚めはじめ、
視野が拡がっていき、
今までの古い制限された観念から脱却し、
新しい世界へと移行することが出来ます。

今までも何度も
霊的な光が地球上に注がれる周期はありました。

しかしながら、
今回は人類の霊的覚醒だけではなく、
地球の進化が同時に重なる地球始まって以来の特殊な時期に当たります。

地球は、物質界における波動までもすでに高まりつつあり、
長い年月に渡り蓄積された歪の浄化が
あらゆる面で表出しています。

ある一定の周波数を超えて波動が高まると、
地球はその表現媒体を物質からエネルギー体へと移行します。

「あいうえお」から「あおうえい」へ。

それを表現したのが、
「い」は「お」となりて

ここが、
君が代の核心部分になります。

そのエネルギーシフトの内容と法則は、
数字で表すと三三〇一四
で表わされます。

つまり
さざれいし
です。


☆彡 ☆彡 ☆彡

「あいうえお」で一番初めの「あ」はカタカムナでは「アウノスヘシレ」の「ア」です。「アウノスヘシレ」は「ヒフミヨイ」「マワリテメクル」「ムナヤコト」のあと、「ト」で統合したあとの最初の響きが「ア」で、これは高次の「ヒ(始原)」、高次の響きであり現象界の一番初めとなります。

愛(アイ)は「ア」の位置(イ)であり、だからこそすべては愛から始まる。

上記はジイジの言葉ですが、「ア」の位置をチャクラで見ると胸部、ハートの位置となります。以下、母音とチャクラの位置を紹介します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

鈴木俊輔著『御霊の法則』(徳間書店)によると
下のチャクラから順に「うおあえい」となっています。

次のように書いてあります。

①言霊「ウ」・・・会陰・仙骨(ムラダーラチャクラ)
②言霊「オ」・・・腹部(マニプラチャクラとスワディスタナチャクラ)
③言霊「ア」・・・胸部(アナハタチャクラとマニプラチャクラ)
④言霊「エ」・・・咽喉(ヴィシュダナチャクラ)
⑤言霊「イ」・・・頭部(アジーナチャクラとサハスララチャクラ)

また『アルファベットの事典』(創元社)によると

会陰部・・・ド・・・U 「ウ」
丹田・・・レ・・・O閉 「ウォ」
太陽神経叢・・・ミ・・・O開 「オ」
心肺・・・ファ・・・A 「ア」
喉・・・ソ・・・E 「エ」
第三の目・・・ラ・・・I 「イ」
頭頂部・・・シ・・・M 「ム」

となっています。


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あいうえお

高次の響きである「ア」がハートにやってきて、そのエネルギーが、頭部(イ)→会陰(ウ)→咽喉(エ)→腹部(オ)と移動していきます。高次の響き(ア)を頭で解釈し(イ)、それをそのまま落とし込み(ウ)、表現し(エ)、腹に収める(オ)。

こんな感じですかね。

そして、あおうえいは、

高次の響きである「ア」がハートにやってきて、そのエネルギーが腹部(オ)→会陰(ウ)→咽喉(エ)→頭部(イ)と移動していきます。高次の響き(ア)を腹で感じて(オ)、落とし込み(ウ)、表現したもの(エ)を頭で理解する(イ)。

こんな感じかなと思います。

「あいうえお」では、思考(頭部)という自我を経たエネルギーが最後、腹に溜まります。自我のエネルギーが行動(落とし込み)へと繫がるため、それは自分視点が強く反映されます。その結果、独りよがりになりがちであり、だからこそ、今の世界の混乱があるのだと思います。

一方、「あおうえい」では、まず腹で落とし込んだエネルギーが思考(頭部)を経て、頭頂から天へと還っていきます。ハートで受け取ったものを腹で落とし込んで天へと還すのです。自我は腹で落とし込んだものから学ぶのであり、そのエネルギーはそのまま天へと還っていきます。自我は学びの中で成長し調和的になっていく。それが「あおうえい」なのだと思いました。

「あいうえお」から「あおうえい」

そのエネルギーの動きの違いを意識し、まず腹で落とし込んでそこから学び、そのエネルギーを天へと還します。

カタカムナの5首6首です。







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