客観背後からの激励

客観背後からの激励

3月18日は彼岸入り。春分の日を目前に控えたこの日、ジイジはなかのんに対して以下のように語りました。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 あなたは哲学者で悟りを求める人。昔、悟りたいという人に出会ったが、悟りたいと言った人に悟った人はいない。あなたも何かしらを求めて一生懸命自分自身の尊厳を保とうしてきたけれども、結果、その努力が自分の尊厳を落としている。それはちゃんとその構造を知らないと使ったエネルギーが無駄になるどころか、自分を貶めて、自分自身の足を引っ張ることになる。 あなたはブログで、自分の問題点なんかも書きながら、その奥から客観的に見て、自分の問題点を分析しながら、天の意志である客観背後も語っている。それがあなたのブログだと思うのだけれども。 そしたら今、あなたが客観的な自分の未熟さを知ってだね、客観背後という本物の意思を受けたトキ、ある意味、客観背後という魂の存在から激励されているのではないのかなとも思わんでもない。でもそう思えるかどうかはあんたの人間性次第。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 なかのんには取り繕う特性があります。そして、取り繕いたいという気持ちが自動的に働いているようです。だから、普段なんでもないように過ごしている時でも、心の中がどのようなものかは分からないものです。そして、取り繕えなくなると後ろめたくなるようです。そんな彼が取り繕うことが出来ない状況を迎えています。その状況は、取り繕う必要のない本当の力を身に着けるように・・・という天からの激励と言えるのではないか?それがジイジの言葉を受けて私の感じるところです。 そして同じ日、ジイジは以下のように語っています。 ☆彡 ☆彡...

人類共通の学びを紹介していく

人類共通の学びを紹介していく

2019年3月7日、魚座新月の日は朝から雨で、この季節には珍しく雷も鳴りました。そしてその夕方、雨はあがり、空には美しい虹が掛かりました。その虹はまるですべてを洗い流した空を祝福しているかのようでした。 このブログの書き手であったなかのんは、その3月7日1時5分、魚座新月となったタイミングでこんな文章をアップしています。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 3月7日は、僕の44歳の誕生日でもあります。月が始まりの位置にあるトキ、太陽が僕の始まりの場所に戻りました。そして、2019年3月7日は「4」の日です(2+0+1+9+3+7=22、2+2=4)。「4」の日に「44」歳になった僕は、禊(みそぎ)により今までの自分を「死(4)」なせ、この世界に溶かし、生きとし生けるものの繫がりの中で、世界を豊かにするために生きていく。そんなふうであるように日々努めていこうと思います。 「狂った反応パターン、そのものを手放す」より ☆彡 ☆彡 ☆彡 その言葉の通り、この日の彼は、自らの汚れを吐き出すことで洗い流され昇天しました。上記の文章は、彼がずっと前から用意していたもので、この文章を最後に、彼はしばらくブログをお休みすることを考えていました。そんな彼は、他の木の花ファミリーメンバーからも以下のような言葉を貰っていました。 ☆彡 ☆彡...

狂った反応パターン、そのものを手放す

狂った反応パターン、そのものを手放す

中学校で勤めている時、僕は職員室の自分の机を蹴飛ばし、 そのままドアに向い、ドアを叩きつけて締めて、そのまま学校を離れました。そして、道路を歩きながら、傘を叩きつけて、傘を壊したら、空から雨が降ってきて、僕は濡れながら家まで5km歩いて帰りました。僕はその頃、毎晩泣いていて、人前でもきっかけがあると涙を止めることが出来ませんでした。そして窓から飛び降りる衝動に襲われ、マグカップを人に投げつける衝動に襲われ、心を静めるために一日に何回も屋上に行き、一人で佇んでいました。なんか漫画みたいなバカな話。ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ… 僕はそれぐらい自分の感情に翻弄されていました。それはある意味、極端な精神状態への憧れでもあります。忘我。自分を忘れるほどの熱狂、狂気。僕の中にはその状態を求める気持ちがあり、それが時に無理な行動に繋がり、自分を壊していきます。 「空っぽへのあこがれ」より ☆彡 ☆彡 ☆彡 上記は、このブログで何度か紹介している13年前のエピソード。この頃の僕は、人格的にはどうしようもないと思える人に惹かれていて、それと同時にその人と同じ空間にいることが耐えられないぐらいにムカついていました。そのムカついている感情は、訴えても状況が改善することはなくて、それをそのまま維持しているのが辛くなり、惹かれる感情を優先してムカついている感情を超えようとしては、満たされずに消耗してボロボロになっていくということを繰り返していました。その結果、自分がどうしようもない人格となっていきましたが、結局、ひどいものと思える相手の反応も自分が引き出し相応しく与えられたものと言えます。すべては僕の一人相撲なのです。 自分の反応パターンが完全に狂っている 僕はこの事例を通してそのことを認識しました。この事例は、極端な例ですが、自分の中に相反する想いがあるトキ、それに向き合わずにいることで、矛盾した行動に繋がっていくことは、他の場面でも経験してきています。 たとえば最近では、滞りを経験し、みんなに合わす顔がないと感じる自分がいました。それと同じくして、高いところに意識を向けることで、今の状況を乗り越えようとして、ブログを書く自分がいました。心を閉ざす気持ちを抱えながら、自らの想いを発信しようとする。それは相反する想いであり、それに無自覚でいると、見知らぬ人には感銘を与えることが出来たとしても、身近の人をしらけさせてしまいます。ここ最近の僕のブログにはそういう傾向が確実にありました。 そして、人類全般に目を向けた時、環境破壊がこれだけ進み、未来に漠然とした不安を抱えながらも、経済発展という欲を追い求めるこの世界の動きは、大きな矛盾を抱えたもので、人類全体の反応パターンも狂っているように思えます。 自分の中に世界を見て、世界の中に自分を見る。そしてそこに向き合っていくことが大切だと思っています。そして、...

自我から湧き出る想いは自分を鍛えてくれる風のようなもの。

自我から湧き出る想いは自分を鍛えてくれる風のようなもの。

今、木の花ファミリーでは、1ヶ月間の真学校が開催されていますが、開講の前に、ジイジは以下のように語っていました。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 木の花ファミリーのメンバーはここで暮らすことの意味を共有し大事にしているから、それにふさわしい景色を毎日出会う出来事から観ている。面白い捉え方として、世界は動いている。それは、この世界が動いて時代を刻んでいるようだが、一人ひとりが出会う出来事から観る景色は時代のほうから見せてくれているのではなく、自分が何を考え、毎日どのような生活をしているのかによって見るものを選択している。それは自分の心のフィルターを通して世界をみている状態で、たとえば怒っている人にとっては世界が怒りの原因をもたらしているように解釈できるわけだ。体の中のバランスを欠いている人は、そのアンバランスは自分の中にある原因に基づいて蓄積されてきたものである。それは世界が歪んでいるのではなく、自らの歪みが蓄積されてきた結果もたらされたものである。だから、人生においてどのような景色をみて、どのような感情を持ち、どのような人生を送るかは、どんな時でも自分次第だ。それは、自分にとって世界は自分自身を知るための鏡であるのだから、本当はこの世界に不満を言ってはいけない。 多くの人はそうやって自分のみる景色を否定していくが、世界はその悟れない人を使って物語を紡いでいる。世界が時代を創っていく時の物語を個人としての立ち位置で理解できれば、それが本当の生きる目的であり、悟るということになる。ところが今、人々は自らの思惑や精神に翻弄されて生きているので、自らが発したものを世界に映し出し、それを自分がみることによって、自分自身に溺れている状態だ。 時代は、サイクルを刻みながら大きな物語を紡いでいて、どのような時代も何かメッセージを表現しようとしている。人間はその大きなメッセージを理解できるような存在でもある。人間以外のものは時代の目的と共に忠実に存在するけれど、時代の目的を理解し、それを共に表現するような意識を持つことはない。それに対し、そろそろ人間は、自分から湧き出る精神に翻弄されるのではなく、自らの精神をコントロールし、そして時代の目的を理解することにより、それを時代と共に表現する時が来ている。それが人間の尊さの証なのである。「時代」は「時の代(シロ)」と書くように、うつろな(ロ)時の示し(シ)。その宇宙創造の根本原理と共に生きていけば、人間の存在する目的が観えてくる。現代のように、人々がお金やものやテクノロジーに溺れてしまい、人間の本当の生きる意味を見失っている状態では、生きることの本来の目的を表現することはできない。そもそも、これほど物質に偏った欲求を表現しなくても、これほど自我に囚われなくても、その情熱を合理的に向ける方向は他にもある。 それを示すために今、生きている。それをこれからの人々が表現できるように、私は今、地球生命として生きている。言葉で伝えるのは難しいから、感じてもらうために、私は今を生きている。内にある想いを人々に伝えるのはとても難しい。それと同じように、時代はその奥にある意思を人間に感じさせようとしている。そして、それが通じた時に、人々に生きることの本当の喜びが発生する。時代の意思が感じられる者として、私はその立ち位置で今、生きている。 「1ヶ月間の真学校・ジイジの開講の挨拶」-予告編・徒然なるままに真学校を語る‐より ☆彡 ☆彡 ☆彡 自らを分けると書く「自分」。自我を持ち「自分」という意識を持つ人間は、自らを世界から分けて認識します。そして、多くの人が、そこから湧き出る精神に翻弄されることで、お金やテクノロジーに溺れ、社会に混乱が広がっています。 ならば、自我は害をもたらすだけの余計なものなのか?と言ったら、そんなことはないと思います。闇があるから光を認識出来るように、この世界を認識するためには、そこから離れた自我の存在が必要となるのです。今は多くの人が自我に溺れることで、この世界を動かしている大いなる意思の存在を忘れてしまっていますが、思い出せば、自我も時代の意思と共にあることが出来るのだと思います。...

余剰のところで遊ばせてもらっている

余剰のところで遊ばせてもらっている

余剰のところで遊ばせてもらっている という言葉が浮かんで来ました。そして、立春正月のジイジの挨拶を思い出しました。以下、その言葉を引用します。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 皆さん、明けましておめでとうございます。 先月も明けましておめでとうございますと言いましたが、正月の月が終わり、富士浅間木の花祭りが明けまして、おめでとうございます。そして立春正月が明けまして、おめでとうございます。3月21日になれば、それは木の花ファミリーの誕生日でもありますが、春分で本当の意味での一年の始まりとなり、農の正月を迎えることになりますから、これもやはり明けましておめでとうございます。 今朝も、夜が明けました。毎日夜が明けます。今朝私は倉庫に行って、「おひさまハウスひまわり」の新しい看板を作っていました。今日は朝からとても暖かく、天気も良く気持ちの良い日で、暦の上の立春という日を感じながら作業をさせていただいていました。 ここで何が言いたいのかというと、毎日毎日、瞬間瞬間、私たちは時と共に生きているということです。 もしもこの世界に時がなかったら、どうなるでしょう。すべてが存在しないことになります。私たちは時の旅人であり、時と共に、こうして存在しています。時と共に生まれ、時と共に死んでいく。そしてまた、その時の中に生まれてくるのです。 それを平面で表せば、円になります。しかし実際に、人生では、いろいろなことを体験し、変化しながら進んでいきますから、それは円ではなく、渦になっています。そのような仕組みの世界のことを、「宇宙」と言います。 「ウチュウ」をカタカムナでひも解くと、渦(ウ)が持続(チ)して、極めて不思議なユラユラとした揺らぎ(ユ)が渦(ウ)になっている。それが宇宙です。私たちは毎日を、その中で生きています。 今日は立春正月祭という祭事が行われました。私たち木の花ファミリーは、「マワリテメクル」、つまり、毎日地球が自転し(マワリテ)、そして一年を通して公転する(メクル)という宇宙の法則を感じながら生きています。毎日朝起きて「おはようございます」と言い、お昼にはご飯を食べ、夜はみんなで集まってミーティングをして、「おやすみなさい」と言って眠ります。それは「マワリテ」という時の流れの中にあるけじめです。そうして四季を迎えながら、「メクル」時の中で季節に応じた祭事を行います。私たちは自然から命をいただき、自然の中で命を巡らせています。自然から食べ物をいただきながら、そのことを意識し、「マワリテメクル」時の中で一つひとつにけじめをつけながら生きているのです。 ~...

失った天意を人間社会に取り戻す

失った天意を人間社会に取り戻す

最近、アメリカでの麻薬の害悪について書いている記事を2つ読みました。まず一つ目が、「新MUのブログ・米国は麻薬によって滅びることになる」です。以下、少し文章を引用してみます。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 世界の貧困から見るとアメリカは豊かな国ですが、薬物犯罪は増加傾向にあり、薬物が原因での死亡者も増え続けます。中南米から、毎日かなりの量の麻薬がアメリカに入っているのも感じます。麻薬戦争は、今年あたりから激しさを増すことでしょう。 メキシコとの国境に塀を建設すると言ったトランプ大統領の考え方は、もしかすると正解だったのかもしれません。私の見える限りでも、アメリカとメキシコの国境には抜けられる穴場があちらこちらにあり、薬物を持ち込むのも容易です。政界人や国の仕事をしている人の中にまで、この麻薬依存症の人がいたりする気さえしています。(中略) アメリカの国力をも低下させるのがこの麻薬です。刑務所が罪人を収容できず、本体なら刑務所入りの麻薬常習者を放置しているとしか思えません。世界はこれから麻薬との戦いを迎えることと思います。日本でも、大麻や覚せい剤の使用者は増加すると心配しています。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 もう一つが、「In Deep・西洋社会で次々と合法化されていくドラック・・・」で、この記事では、米国での薬物(オピオイド)の過剰摂取で死亡する確率が、自動車事故を上回ったという事実を紹介しています。以下、記事の一部を引用します。 ☆彡 ☆彡...

何とかしようとする心が・・・

何とかしようとする心が・・・

1月17日に出会ったアオバト 1月9日の朝日です。 1月26日の朝日です。 青い(緑の)鳥に出会ったり、八方に光を放つ太陽の写真を撮ったりと、今年の1月は吉兆だと思えることに出会っていましたが、その行きつく先は滞りでした。これはなぜなんだろう?としばらく思考を巡らしていましたが、今はこんなふうに思っています。 そのトキ起きた滞りは、僕の実態を教えてくれましたが、実態こそがいつでも天に繋がっていて、実態と真摯に向き合う姿が尊いものだと言えます。幻想を壊し実態と向き合うように導く滞りに出会ったのだから、やはりそれらは吉兆だったのです。吉兆は天の意思に基づくもので、自分都合のものではないのです。 こんな感じに思っています。ところで、 今の状態に問題を感じて、何とかしようと真剣に向き合う姿勢が、かえって自分の視野を狭くしていたことに気づきました。それはどうしてかというと、その何とかしようとする気持ちが自分都合であり、その問題は、本当の意味では大切なことではないからなのだと思います。この場合、何とかしようとする気持ち自体が、問題の種になっています。僕は「これは人生最大の課題だ」と思っていて、何とかしようとし続けていましたが、その姿勢が問題の種となり続けていたのだとしたら、超えることが出来なかったのは当然と言えます。何とかしようとする気持ちを手放し、ただ目の前の状況をいただき続けたトキ、問題は立ちどころに消え去るのかもしれません。これはあくまで仮定で、だから先に行ってみないと分からないことだけれども、そんなふうに思いました。 それでこれは環境問題や平和運動にも通じることなのかもしれません。それらの問題を何とかしようとする心が自分都合のものだったらならば、その姿勢が視野を狭くしてかえって問題を複雑にしているのかもしれません。ただ目の前の状況をいただき続けたトキ、そのためにそのトキ起きる心のさざ波を鎮め続けたならば、この世界の問題事は立ちどころに消え去るのかもしれません。 ここで思い出したのが以下の言葉。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 許すこととは相手を無罪放免することではなく自分自身を負の感情から自由にすること。...

流れが自分を変えていく

流れが自分を変えていく

そこだけ切り取ってみると理不尽に見えることも、俯瞰してプロセスとして見ていくと相応しく与えられていることが見えてきます。 世界は理屈ではないところで動いています。大いなる流れ。それに沿っているトキ、物事は順調に流れます。流れに沿う心がないトキ、物事は滞っていきます。自分にばかり意識が行っているトキ、流れを見たり、感じたりする心がなくなるから物事は滞っていきます。流れに沿う心がなく、理屈で考えて自分を変えようとしても滞りは続いていきます。そして出会った滞りを瞬間で切り取って、理不尽に感じていくのです。努力が実らないことに苛立ち、そしてそのことに疲れたら投げやりになっていくのですが、俯瞰してプロセスとして見ると、それは相応しく起きている出来事と言えます。 物事を好転させたいと思ったら、自分や問題事ばかりに意識を向けるのではなく、まずは大きな流れに意識を向けていく。そして、流れに沿わない心をそぎ落としながら、流れに沿った行動を一つ一つ積み上げていく。すると流れが自分を変えていきます。そのトキ、流れが変わったと感じるのですが、それは自分から見た流れで、大いなる流れは変わらずにあり続けるのです。 ということで、ここで立春正月での、ジイジの挨拶の最後の言葉を紹介してこの原稿を終わりとしますね。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 今この瞬間も、留まることなく時が経っていきます。本当は、私たちは常にそのことを実感していなければいけないのです。時が経つ仕組みは、天体の動きによって成り立っています。地球は24時間で自転し、365日で公転しながら、機械のようにきっちりと周っているのではなく、そこには遊びがあります。だから問題ごとが起きるのです。遊びがあるからこそ、思わぬことに出会う。そこで私たちは考える力、生き抜く力を身に付け、たくましくなるのです。 この世界では、問題ごとが起きれば必ずそれに対する答えが出るようになっています。ところが人間は、宇宙の法からではなく、自分の考えで答えを出そうとするようになり、その結果、今のような世の中となったのです。もう一度、私たちは宇宙の法と共にあることに気付かなければなりません。 それでは今、この瞬間に、乾杯しましょう。 改めまして、皆さん、明けましておめでとうございます! ジイジのブログ「毎日が明けましておめでとうございます」より https://konohanafamilyeconomy.blogspot.com/2019/02/blog-post_15.html流れが自分を変えていく ...

人生は波乗り、その奥に本質を見出す。

人生は波乗り、その奥に本質を見出す。

僕は昨年の11月から一つの試みをしていたのですが、今からそれを見ると、浮かんでは消える波の一つのように感じています。波と海について、かつて僕は以下のように書いています。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 僕は海。そして浮かんでは消える波として人生を送ります。 波としての自分に焦点を当てれば、それは自分の人生と感じるかもしれませんが、僕は本来、海そのものなのです。だから、波(自我)としての自分は他のすべての波(自我)と同様で、世界の彩りの一つに過ぎず、それはみんなのものなのです。 僕は自分を通してみんなの人生を生きる。 それは僕の人生が僕だけのものではなくみんなのものでもあるということです。 「みんなの人生を生きる」より ☆彡 ☆彡 ☆彡 波としての自我は、海としての天・世界から離れる動きをします。その波が大きいとまるで海(天)から外れてしまったようにも感じますが、その動きも海(天)の一部であり、必ず海(天)へと戻っていきます。海(天)はこの世界の均衡を保つものだとしたら、波(自我)は動きをもたらすもの。双方があって世界は豊かな彩りを放ちます。 大きすぎる波に出会うと、上手に乗れずに溺れてしまい、自分を見失うことになります。昨年の11月から乗っていた波は、人生最大のテーマから生まれる波で、今まで数多くの滞りと混乱を僕の人生にもたらしてきました。このブログでは何度か紹介している以下のエピソードはその一つです。これは13年前の出来事です。...

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