ただただ他者を思う心

ただただ他者を思う心

これまでの価値観では、人に何かをしてあげることは、「自分がしてあげた」とある意味優越感を持つようなものでした。或いは、人にしてあげることで自らのものが奪われるように思う人もいます。しかし人に何かをしてあげるということは、こちらが人に対して何かをさせてもらえる、ということです。そこには、人のために生きたという価値が生まれます。そうすると、「してあげる」ではなく「やらせていただく」という心になります。ただ他者のために生きる、という、生命の定めを表現した時に、その人は自ずと、自らの価値を上げていきます。そして自らの行うことが、世の中を良くしていきます。そういった仕組みがこの世界には流れており、自らが生きることで、その仕組みが現象化するのです。それは何も難しいことではありません。高度なテクノロジーやコロナウィルスのワクチンを開発することの方が、ずっと難しく、お金やエネルギーもかかることでしょう。それは誰しもの心の内に秘められた、世界の掟です。自分のことばかりを考えて生きて、そのことがわからなければ、その大いなる仕組みを感じ取り、寄り添おうとすることにこそ、自我を発揮しなさい。「私の目的は、この世界の仕組みが健全に表現されることであり、それを喜びとするのが私の自我です。」そして、この世界を創造する大いなる側の視点に立ち、そこから自らの側へと帰り、その心で自らを包み込み、この世界のすべてになる —————私は、夢を見ました。それは、いとも簡単にその世界へ行ける夢でした。そこでは、何かを求める気持ちは消え去り、ただ心が満たされていました。今の現実の中では、それは本当に夢のようで、程遠い世界に思えるかもしれません。しかし、心がその意識に目覚めれば、可能なのです。この世界には、様々な可能性が秘められています。一人ひとりの人間が、どのような精神状態で生きるかによって、それにふさわしい世界が目の前に現実化してきます。そのたくさんの可能性の中でもっとも大切なのは、世界が幸せという生産物で満たされることです。それは目には見えないものですが、心身ともに健康な世界を創ってくれます。その原料は、他者を思う心。他者の幸せを願い、他者のために生きていけば、実現できるのです。そこには、幸せになるための音楽が流れ、幸せになるための食べ物があり、幸せになるための会話が交わされ、幸せになるための日々の暮らしがあるでしょう。そして欲しがる心は満たされて、多くを必要としなくとも、少しのエネルギーでたくさんの幸せが生まれるでしょう。それはどこにあるのかというと、人の心の中にあります。そのスイッチを、あなたが入れればいいのです。そのような世界があることを、私は観たのです。ジイジのブログ「ただただ、他者を思い生きること~2021年1月1日」より☆彡 ☆彡 ☆彡上記は、ジイジによる2021年最初のメッセージからの引用です。この話を聴いて、僕は仏教に伝わる『地獄極楽の食事風景』の話を思い出しました。それはこんな話です。☆彡 ☆彡 ☆彡「地獄」も「極楽」も食卓を見るだけなら何ら変わりはない。沢山のご馳走が用意されている。ただし、どちらも三尺(約91cm)もある長い箸を使って食べなければならない。 地獄の住人たちは、先を争って食べようとするが、長すぎる箸を使いこなせず、やがて周囲と争いを起こし、せっかくのご馳走を食することができない。そのためいつも飢餓感に苛[さいな]まれている。 極楽の住民たちは、三尺の箸でご馳走をつまむと、自分より先に向かい合う相手に食べさせてあげ、自分は相手がつまんだご馳走を食する。そのためいつも楽しく満ち足りた心持ちで暮らしている。「地獄・極楽の食事風景-三尺箸の譬えを徹底検証」より引用☆彡 ☆彡 ☆彡地獄も極楽も同じ場所に存在していて、ただ人々の心が違うだけなのです。この話を受けてジイジは、「箸の持ち方を工夫して自分で食べることが出来るようになるのが人間の英知。だけれどもお互いに食事を与えることにはそれ以上の豊かさがある」と語りました。科学やテクノロジーが、人間にとって厳しい自然環境の中で、自分の力で豊かさを獲得しようとする試みだったとしたら、それが限界に来ていることを様々な現象が教えてくれています。それを克服するためには、「ただただ他者を思う心」、それだけが必要なのでしょう。では「他者を思う心」とはどのような心で、どのように育めばいいのでしょうか?誰かのために・・・と思って行動することが相手にとって有難迷惑になることもあります。それに対する答えは先日の大人ミーティングで語ったジイジの言葉の中にあります。☆彡 ☆彡 ☆彡ちょっと目線を変えて見る。ちょっと距離を置いたところから自分のやっていることを見る。そうすると他人目線になるから、そういう人は他人のために生きるようになる。ちょっと距離を置くということは、他人の位置から見るということだから、この人はこんなことを求めているなと感じて、それに応えていくことが出来る。それがキャッチボールということ。自分からしか見ていないと他人のために生きることは出来ません。☆彡 ☆彡 ☆彡ただただ他者を思う心。この言葉から思い出した言葉がもう一つあります。それは、「傍楽(はたらく)」という言葉です。現在、多くの人にとって働くことはお金を得る手段となってしまっていますが、本来、働くとは「傍楽(はたらく)」であり、働くことを通して、傍(はた)を楽(らく)にし、自分を超えた大いなるネットワークの中で役割を果たしていくことなのです。木の花ファミリーではみんな、そんなふうに働いています。だからこそ、そのような日々を地道に繰り返すことより「この世界を創造する大いなる側の視点に立ち、そこから自らの側へと帰り、その心で自らを包み込み、この世界のすべてになる」ことが出来る可能性があるのだと思います。そこには「希望の風が吹いてくる」のです。2021年1月13日(新月)の富士山です。2021年1月11日の富士山です。2021年1月1日(元旦)の富士山です。2020年12月29日の富士山です。今年の冬はほとんどの期間、冠雪していない富士山。それでも元旦、新月という節目に少しだけ冠雪しています。これもこの世界を創造する大いなる意思の顕れの一つですね。ちなみに過去の富士山を紹介するとこんな感じです。2020年1月13日の富士山です。2019年1月11日の富士山です。2018年1月13日の富士山です。2017年1月12日の富士山です。2016年1月14日の富士山です。2015年1月3日の富士山です。 https://konohanafamilyeconomy.blogspot.com/2021/01/blog-post_13.htmlただただ他者を思う心...

希望の風が吹いてくる

希望の風が吹いてくる

新年あけましておめでとうございます。昨年末、天体の動きは風の時代へと移行しました(地球暦では2020年11月3日、占星術では2020年12月22日)。その動きに合わせ、木の花ファミリー通信2020年冬至号のタイトルは、『風が吹いてくる』です。以下、その文章の一部を引用したいと思います。☆彡 ☆彡 ☆彡私たち生命は、人工の力を遥かに超えるこの世界の大いなる仕組みによって生かされています。一つの種の中でそれぞれが全く違う個性を持つ人間は、それだけ強い自我を与えられたということでもあります。それは、ただこの世界の創造物として仕組みのままに生きるのではなく、その世界から自らを切り離して捉え、全体を俯瞰し、この世界を創造したものと同じ視点に立つことのできる能力として与えられたものです。ところがその自我故に、私たち人間は世界のために生きるよりも、自分のために生きることとなりました。しかし私たちは、自分である前に人間であり、人間である前に生命です。本来、生命の領域では、個々の生命は自分のために生きてはいません。多種多様な生命がそれぞれの個性を発揮して生きることで他の生命を支え、つないでいく、大生命循環の一員として、地球生命生態系を表現する役割を果たしているのです。今、世界は大きく混乱し、大転換の時を迎えています。これからの人間は、個々の枠を超え、他者のため、世界のために生きることが求められています。それは生命の本来の姿に立ち返ることです。さらに人間は、ただ生命としてこの世界の仕組みのままに生きる以上の役割を果たすために、地球上に降ろされました。それはこの世界を創造したものと同じ視点に立ち、共に世界を創造していくことです。この世界の創造主を神と呼ぶならば、それは自らを空にして、神の器となることです。私たちは神の領域に達するために、神から切り離されたのです。この世界には常に、見えない風が吹いています。風は、私たちを生かす大いなる宇宙の意思を乗せてやって来ます。地球上に新たな命が次々と芽吹いていくように、そして地球や他の無数の星々が決して留まることなく宇宙の中を進み、果てしない旅を続けているように、宇宙とは無限の連鎖(フリーエネルギー)を続ける世界なのです。その風を感じ、風に乗った時、物事は極めてスムーズに進むようになり、無駄が削がれて大いなる宇宙の好循環が地上に表現され、全ての生命たちが喜ぶ、地上天国が顕れることでしょう。そこでは、自分のための人生はなくなります。そしてそれが、真に自分のための人生となるのです。そこに吹くのは、希望の風です。その流れに乗り、宇宙にただひとつの個性を羽ばたかせ、自分らしく自由に生きることが世界のためになっていく。そして誰もが、自らの存在を誇って生きられるようになる。その時、世界に奇跡が起きるのです。☆彡 ☆彡 ☆彡風の時代には『希望の風』が吹いてきます。そんな『希望の風』をタイトルとした歌をファミリーみんなで合唱した後、ジイジは以下のように語りました。☆彡 ☆彡 ☆彡今まで長い間、一人ひとりの努力によって、その人の人生を切り開くという時代がずっと続いたのです。一人ひとりは、それぞれの個性に則ってそれぞれ人生を努力してきたのですが、その結果、一人ひとりである為に「人と同じでなければいけない」という不安感だったり、人と比べて「優秀で生きなければいけない」という個人の違いが競争になったり、格差になったりする時代でした。みんなが一人ひとりが個性を極めていくことによって、「自分が豊かになろう、人より豊かになろう」という考えで、だんだんだんだん、バラバラになっていったのです。今は世の中はそれぞれ、一人ひとり違うはずなのですが、一律のことをみんな競争し目指していつの間にか、世界は大きいのにバラバラな時代になってしまいました。今、みんなの歌を聴いていて、この人たちは歌として優れた訓練もしていなければ、能力があるかどうかは知りませんが、力を合わせるとそういったハーモニーや強い力が発揮できると思いました。そして今は、丁度新しい時代の扉が開いて、新しい風が吹き出したところです。そうすると「これからの一つの姿が、ここに観えた」と思いました。力を合わせてより大きな仕事を成し遂げて行く。その時には、一人ひとりの個性は絶対必要ですが、それは自分の為ではなく、「全体の為に自分の個性が必要だという事が大切な事で、今コロナ禍において「なるべく出るな、人と付き合うな、人と距離を遠くしなさい。」という豊かさとは逆行するようなことが言われています。しかし、こうやってみんながよく、その人の素性を理解して安心できる場では、こういった豊かな場所を今でも作れるわけです。そういった風に、「新しい時代の風が吹いてきたな」と歌を聴きながら感じました。もっとみんなは心を一つにしてみんなの力で何かを成し遂げるということをしていけば、今まであった時代が生み出したもの、そして今までできなかったことが、これからできるはずです。それはまだ現れていないから何かとは言えませんが、しかしこれをやっていけば、「こういう事だったのか、という事に、必ず出会うだろう」という希望を感じました。風が吹き出した、そして希望を感じました。「希望の風」というタイトルは「そういう意味であるんだな」という事を想い、「出会うべき、そしてやるべきことにやっと出会えた」ということを感じて、よい時間でしたね。みんながそういったことをこれから考えて、対立から調和へ。個性は全体の為に活かして、より大きなことをみんなで成し遂げていく。そういう事をこれから大事にして、この暮らしが新しい時代のモデルになる事を願っています。みんな一人ではやれませんので、力を合わせてやっていきましょう♪byジイジ木の花ファミリーFacebookページより☆彡 ☆彡 ☆彡これから希望の風が吹いてきます。それはきっと一人ひとりの個性を生かし、美しい全体を表現する未来を生み出します。希望この字は、未来に向けてのエネルギーを感じさせる言葉ですが、「希(まれ)な望み(のぞみ)」と書きます。これはどういうことかというと望みは少なければ少ないほど良いということだと思います。ギリシア神話に登場するパンドラは、神々から「開けてはいけない」と言われた箱を持って人間界に現れます。そして、好奇心から箱を開けてしまいます。すると箱からは疫病や悲嘆、欠乏、妬み、憎しみなどあらゆる災いが飛び出しました。こうして世界には災厄が満ち、人々は苦しむことになるのですが、絶望に沈むパンドラに語りかける存在がありました。それが希望です。あらゆる災いが飛び出した後、箱の底には希望が残っていたのです。好奇心から箱を開けたパンドラの行為は、自我から生まれた望みであり、そこから苦しみが生まれます。その状態に絶望し、自我の働きがストップした時、希望、「希(まれ)な望み(のぞみ)」が生まれ、生きるエネルギーとなっていくのです。たとえば村上龍さんの小説『希望の国のエクソダス』は、優秀な中学生たちが北海道に自分たちの独立国家を築き上げていく物語ですが、その中でリーダー格の少年ポンちゃんは、「この国にはなんでもある。でも希望だけがない」と語っています。日本にはたくさんのものがあります。でもそれらは自我の欲望が生み出したものだから、そこから希望が生まれることはないのです。未来に向けて希望を持って生きるならば、自我の生み出す望みは少なければ少ないほどいいのです。自我の働きがストップしたトキ、時代の風が一人ひとりの個性を生かし、美しい全体を生み出していくことでしょう。そんな暮らしを木の花ファミリーのみんなと表現していきます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。木の花ファミリーのみんなです。 https://konohanafamilyeconomy.blogspot.com/2021/01/blog-post.html希望の風が吹いてくる ...

カルマとの対向発生、そして意識が変わる

カルマとの対向発生、そして意識が変わる

ある日の大人ミーティングにて、ジイジはこんなふうに語りました。☆彡 ☆彡 ☆彡生命にとっては、変化変態することが進化することですが、人間が自我に取り込まれると、その自我が創り出すカルマ(=心の垢)に汚染されていって、カルマが変化を阻むようになります。 いいことも悪いこともカルマとなります。いいことも囚われていくと心の垢になっていきます。悪いことはなおさら心の垢になります。 だから常に柔軟性を持って、その都度、どこにいくかを見ていくという話をしています。 今、大人ミーティング中にマコモダケの処理をしていますが、365日毎日あんなことをやっていたら嫌になってしまいますが、今がマコモのピークだから、今はその気になってやりましょうね、ということでエネルギーが湧いてきます。そうやって地球でやることは変化していきます。 若い時もあれば、熟してきて終わっていく時もあります。それに相応しい自分自身の扱い方、そういうものも柔軟であれば、器用に有効に自分を使っていけます。 ですが柔軟でない人は、通り一辺倒になります。もっと酷いのは、自分の柔軟さに欠けている状態が見えない状態です。見えていて分析できる状態で、それをやるならば、それは超えていく作業になる可能性があります。分からないで頑なにやる人は、本当にいくら一生懸命にやったとしても、そのパターンを超えていくことが出来ません。それをやり続けていると、次へとクリアするために語る言葉が、その場逃れのものとなり、それが癖になってカルマになると、カルマが独り歩きするようになります。何か問題を起こして、周りから「これはこうだよ」と言われると、その「こうだよ」と言われる場面をクリアするための言葉を言うだけで、相手の言葉を心に入れなくなります。言葉では「改善する」と言いますが、それは魂の入った言葉ではなくて、その時点で噓八百を語りだすことになりますが、そういう自分も周りから言われないと分からなくなります。自分を全くコントロール出来ていない状態。こういうふうになるのは固いからで、その時その場に応じた相応しい自分の扱いが出来ていないのです。 自分から発した言葉が自分の心から発した言葉ではなくなっていきます。自分から発した言葉は魂込めて言霊としなければなりません。そうでないと、嘘をつくことになり、その偽物の言葉が発せられたことによって矛盾が自分に返ってくるのです。ここは、自業自得の世界ですから。反対に、矛盾のない魂を込めた言葉を発したら、矛盾のない出来事が返ってくるのです。 今ある現象を見て、これが答えだからこんなものだと思っていてはいけません。心磨きをしないでいたら、どんどんどんどん負債が溜まっていきます。それをいつ見て気づくかですね。 学ぶつもりになれば、どこからでも人は学べます。ただ学ぶ意思がある人のみです。「ガンジスの砂のごとく衆生はおる。そのすべてに仏性あり。」そうお釈迦様は言われたのですが、僕にはそれに付け加えて、「ただし、その道を歩んだものだけにな。」と言われました。その道を歩まなければ仏性は表れてこないのです。☆彡 ☆彡 ☆彡変化変容を繰り返すのが生命の本質で、それが進化するということなのですが、人間のカルマは変化を阻んでいます。道を歩むとは、そのカルマを超えていくこと、その方法を語っているのが、ジイジのブログ「カルマよ、ありがとう。私は次のステージに行きます」です。以下、その一部を紹介しますね。☆彡 ☆彡...

登り続けて流れ続ける。

登り続けて流れ続ける。

健全な生命、人間以外の生命は、自分を活かすということを、無意識のうちにできるようになっています。しかし人間は自我が強すぎるために、意識したことが自分に矛盾を生むような生き物になってしまいました。ですから自我を超越するための修行が必要になったのですが、修行というのは、本来必要ないものなのです。人間以外の生き物で、修行をする生き物はいないでしょう?ところが人間は、特別な境地に自らを追いやらなければ、そこに気付けないのです。だから止むを得ず、自らの状態を客観的に観て自我を超越するための修行が必要になるのです。 しかしそれは本来、特別なものではありません。自らの思考に囚われない客観的な思考を持つことにより、目指すべき精神状態というのは自然に湧き出してくるものです。生命である人間には、そういった仕組みがもともと備わっています。そしてそれは人間だけではなく、他の生命にも全て、自らを正しく活かす仕組みがもともと備わっているのです。 「どうしたら自分は良い人生が生きられるだろう?」と考えた時点で、既に自我の虜になっています。そのような、自らの願いと反対の方向へ進む思考を巡らせるのではなく、今、自らに与えられている現状を頂いていくことが大切です。その現状を通して大切な気付きを得るための修行を与えられていると思い、現状への感謝の心が湧いてくれば、道は開けるものなのです。ジイジのブログ:「修行」とは本来必要ないもの・より☆彡 ☆彡 ☆彡上記は最近アップされたジイジのブログですが、この文章を読んで、「だからこそ人間には『道』がある」という言葉が浮かんできました。そして、5年前に「道」について書いた文章を思い出しました。それはこんな内容です。☆彡 ☆彡 ☆彡ジイジのブログ『とんとんとんと超えていく』ではこの暮らし、この道を川の流れにたとえています。流れに任せて、その時その時の風景を味わいながら、留まることなく流れ続け、最後に大海に至ります。大海に出たら、その一部となり、太陽の力(宇宙の循環システム)によって蒸発し、また宇宙を生きる種として再生し、地球に降り注ぎ再び川になっていきます。大いなる循環の中で常に変化して生きていこうと思っています。僕は川を流れていくと同時に山を登っていきます。またこの道は山登りにたとえられることもあります。頂上に至るまでにはいろいろなルートがあるけれども、必ず最後は一つの場所にいきつきます。頂上をみんなと共有し、僕は僕の道(未知)を歩んでいきます。登り続けて流れ続ける。この相矛盾するように思える行動に矛盾がない世界。それがこの世界。僕は僕の道(未知)を登り続けて流れ続けていきます。そして最後は大海の一部となり山の頂上から世界を見渡します。ジイジのブログ『いつか死を迎える時に』には以下のような記述があります。- - -人が生きて、終末を迎えたときに問われるのは、「濁り」なのです。人生の内容のことは何も問われません。そこでは心の濁りだけが浮き彫りになり、自らの生きた結果として問われることになるのです。- - -自分が大海へ至った時に、自分の濁りで大海を汚さないように。本当の意味でそこに融け合うことが出来るように。僕は自分の願いから自由になります。願いから自由になるために生まれてきたより☆彡 ☆彡 ☆彡Understanding is...

戦争を生み出す心を超えていく

戦争を生み出す心を超えていく

かなりの部分まで、20世紀の不平等を緩和したのは、経済的、政治的な衝撃を伴う戦争という大混乱だった。漸進的で、合意にもとづく、争いのない変化を通じて、平等の拡大へと至った例はひとつもなかった。20世紀において、過去を消し去り、社会がまっさらな状態で新たに始動できるようにしたものは、調和のとれた民主的合理性や経済合理性ではなく、戦争だったのであるHONZ「暴力と不平等の人類史:戦争・革命・崩壊・疫病」☆彡 ☆彡 ☆彡上記は、ウォルター・シャイデル著「暴力と不平等の人類史」に対するトマ・ピクティによる総括だそうです。耕作が始まり財を蓄積できるようになってから、平時においては貧富の差(不平等)が拡大し、何らかの理由で社会が崩壊することで貧富に差がチャラになる。人類はそんな歩みを繰り返してきたようです。貧富の差が拡大すれば、社会の中には不満が溜まります。それは戦争を生み出す土壌とも言えて、人類はその意識に相応しく、戦争という残酷な結果を頂き続けているのです。だからこそ、戦争という痛みを刻むことで、それを超える意識を育む必要があります。8月15日。日本にとって終戦記念日であるこの日は、戦争の痛みを刻む大切な日となっています。そんな日の大人ミーティングでジイジはこんなふうに語りました。☆彡 ☆彡 ☆彡21世紀に入って20年になるというのに、この生命の、奇跡の星ともいえる地球にいる人間という生き物は、本当に傲慢で自分たちの能力が高いと思っているけれども、これぐらい愚かしい生き物はないということが見えてきました。メディアは日本の終戦を毎年振り返っていますが、犠牲者の立場になってしまっているのです。確かに犠牲的側面はありますが、その犠牲に至った過程を観ないで、ただ自分たちが受けている被害だけを言っていては、この戦争がなぜ起きたのかは分かりません。それからあまりにも酷すぎる犠牲が起きたので、いつまでもそれを忘れられないのだけれども、宇宙は常に未知なる未来に向かって進んでいるのだから、未来志向にならなければいけない時代が来ているのだとつくづく思います。日々のニュースを見ていても、そのような、次の時代にいくという現象は見えませんが、宇宙的には明らかに未来に行くようになっています。だからそれを促すために新型コロナウィルスもあれば、50年に一度の特別警報が出るような雨が様々なところで降り、これから台風もやってきます。来年になれば、さらにひどくなるでしょう。そのうちに東南海地震や首都直下型地震が来たら経済は確実に崩壊します。それは生きていくための手段が奪われるということではなく、生き方を変えなさいというメッセージと受け取らないと、いくら反省して振り返ったところで姿勢は根本的には変わりません。今日、NHKで放映された「太陽の子」。若手物理学者たちが原子爆弾を作ろうとしていました。日本は原爆を落とされましたが、たまたまアメリカの方が開発が早かっただけです。先に日本が開発していたら、日本も確実に使っていたでしょう。そういう意味では被害者とは言えません。みんな加害者と言えます。それをしっかり振り返ってこの生活に反映させて次の時代の指針を示さなければいけません。人類は宇宙船地球号という同じ船に乗っています。生命システムは一つの流れなのにそこの中で人々は共有することが出来ないのです。多分、宇宙の法則は調和して生きることを人間に信託しているはずなのです。それをやらないからこのような大変なことが起きるのです。これは怪しい宗教の話ではなくて、物理性として神は人間にいい加減にしなさいというメッセージを与えているのです。もっと進化したヒトにならなければなりません。 ☆彡 ☆彡 ☆彡8月15日。日本では戦争の痛みを刻む日となっていますが、それが被害者意識になりがちです。被害者意識は自分視点の表れと言えます。自分だけの視点で見ているから、自分が受けた被害が強調され、他のことが見えなくなります。それは日々の中で貧富の差を拡大させ、結果、戦争へと至る姿勢と同じものと言えます。だからもっと客観的な視点に立ち振り返る必要があります。日々の出来事は自らの心の顕れで、世界で起きる出来事は人類一人ひとりの心の顕れなのです。ということで最後にジイジが語った預言を紹介して終わりにしますね。☆彡 ☆彡 ☆彡「いつかこの国を司る人たちがここへ来て、こう問いかけます。『私たちはこれまで、この国を豊かな国、本当に人々が幸せな国にしようと一生懸命努力してきましたが、いくらやってもどうにもうまくいかないのです。どうしたらこの国を正しく導くことができるのでしょうか。』それに対して、僕はこう答えます。『それは、仕組みや制度をつくることではありません。ここにある自然を見てください。そして、そこに生きる人々の心を見てください。このような心で人々が暮らせるようになった時、そこは本当に豊かな国となるでしょう。』」「木の花記~金神様の巻~」より木の花ファミリーの蓮池です。 https://konohanafamilyeconomy.blogspot.com/2020/08/blog-post_17.html戦争を生み出す心を超えていく ...

賢者は己の敵から多くのことを学ぶ

賢者は己の敵から多くのことを学ぶ

クローズアップ現代「劇団四季 終わりなき苦闘」を木の花ファミリーのみんなと観ました。新型コロナウィルスの影響で劇団四季は、一時講演中止に追い込まれ、経営はとても厳しい状況にあるようです。そのような中、講演再開を迎えた日、劇団四季の吉田智誉樹(ちよき)社長は、以下のように話していました。☆彡 ☆彡 ☆彡「劇団四季は今までもいろんな敵と戦ってまいりました。それは芝居で食うために観客を獲得する戦いだったり、演劇は売れないからアマチュアでもいいんだという、無理解との戦いでもありました。しかし、このコロナという敵はこれまでで最大の敵だと思いますね。とても長かったですけれども、ようやく今日を迎えられた。頑張りましょう。よろしくお願いします。」☆彡 ☆彡 ☆彡番組の中で吉田社長は新型コロナについて何度か「敵」と表現していましたが、その言葉を聞きながら、僕は「賢者は己の敵から多くのことを学ぶ」という言葉を思い出していました。これは古代ギリシアの演劇作家アリストファネスの言葉です。僕は昔、この言葉について以下のように書いています。☆彡 ☆彡 ☆彡「敵がいる」というとネガティブな印象を与えますが、必ずしもそうではないのだと思っています。賢者は己の敵から多くのことを学ぶということは、敵がいる状態は学びがあるということです。ライバルという言葉を日本語に直すと好敵手と書きます。好ましい敵です。ライバルという好ましい敵がいることにより成長する機会となるのです。2年前、僕は「敵が目の前にいるということは自分が敵を生み出す心をしているということです」と書いていますが、この時の僕は、敵という存在を超えていくべきものと捉えていました。最終的には敵がいなくなることを良しとしていたのです。ですが、好敵手であるライバルは自分を成長させてくれる存在です。生きている間、成長し続けるならば、敵がいることは常に有難いことなのです。そのことに気づきました。そして、この「敵はいない方が良い」という心は曲者だなと思いました。それは都合の悪いものを排除する心にも通じるもので、争いを避けているようで争いを増幅していくのだと思います。実際に人類は長年、平和を求めて争ってきています。そして、この心が敵を好敵手ではなくただの敵にし、それが学びのない不毛な争いとなっていくのでしょう。「敵は自分であり有難い存在となる」より☆彡 ☆彡 ☆彡新型コロナウィルスは社会に多大な影響を及ぼしています。生活が苦しくなっている人々にとってその存在が敵に感じるのは仕方がないことかもしれませんが、新型コロナウィルスには以下のような側面もあります。☆彡 ☆彡 ☆彡新型コロナウィルスの感染拡大によって経済活動が停滞している間、地球上の二酸化炭素排出量が一時的に下がりました。世界各地で空気や川の水がきれいになったという報告もあります。IPCCは、2030年に地球の気温が産業革命前に比べて1.5度上昇することを予測し、多くの科学者たちが、気温上昇に伴う巨大台風の増加や豪雨、干ばつ、海面上昇、生態系の崩壊や食料難などを最小限に食い止めるためには、今後10年間に人類がどれだけライフスタイルを転換できるかが勝負であると警告しています。新型コロナウィルスによって人間の経済活動に歯止めがかかったことは、見方を変えれば、地球の自浄作用とも言えるでしょう。「木の花ファミリー通信2020年夏至号」より☆彡 ☆彡 ☆彡物事にはいろいろな側面があり、すべては相応しく与えられています。自分にとって不都合に思えることも大きな視点で観れば、この世界にとって必要なことなのです。だから新型コロナウィルスなど不都合に思えることから学ぶ姿勢が大切になります。“劇場は、人生を深く味わいなおす場であり、芝居は、人々の感動のために奉仕しているのです”これは劇団四季創設者、浅利慶太さんの言葉です。先に紹介したアリストファネスは喜劇の中にするどい現状批判を込めて社会に大きな投げかけをしていました。演劇は、古い時代から人々に夢や希望を与え続けています。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による』この聖書の言葉にあるように、神の言葉、宇宙の法則の表現は常に必要とされています。演劇がそのようなものであり続けるならば、この世界で大きな役割をし続けるのだと思います。宇宙の法則の表現。ということで、最後に再び「木の花ファミリー通信2020年夏至号」から文章を引用して終わりにしたいと思います。☆彡...

「天気の子」から見えるこれからの生き方

「天気の子」から見えるこれからの生き方

瀬織津姫(セオリツヒメ)や男神・天照(アマテラス)、国常立尊(クニトコタチ)など。封印されていると言われる神々がいますが、以下は国常立尊に関する話です。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 宇宙の創造神である七代の神々が世に現れ、そこから個性豊かな八百万(やおよろず)の神々が次々と生まれた神代の時代。自由気ままに振る舞おうとする八百万の神々に、地の大神様は世を乱さぬようにと心の掟を厳しく説かれました。地の大神様は名を国之常立大神(くにのとこたちのおおかみ)といい、その厳しさ故に八百万の神々から疎まれておりました。 「こう厳しくされてはかなわん。何とかならないものか。」 相談した八百万の神々は、天の大神様のもとへと向かいました。 「どうかあの神様にご退陣頂けるようお願いくださいませ。」 八百万の神々の懇願を受け、天の大神様は国之常立大神にこう伝えました。 「すまないが、一度この世の表から退いてくだされ。しかし、いつか必ず世が立ち行かなくなる時が来る。その時再び現れ、この世界を立て直してくだされ。」 それを受けた国之常立大神は、艮(東北)の方角へと退かれ、それより後「艮の金神(うしとらのこんじん)」と呼ばれるようになりました。そしてこの方角は「鬼門」として恐れられ、封印されたのです。 それから、長い時が経ちました。八百万の神々が好き勝手に振る舞った結果、世の中は荒れ放題。自分さえ良ければ良いという「我よし」、力あるものが弱いものをねじ伏せる「力よし」の世となり、まさしく、かつて天の大神様が「いつか必ず世が立ち行かなくなる時が来る」と言われた時代が訪れたのです。 「木の花記~金神様の巻~」より...

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