的が外れていても一生懸命な姿は人の心を打つ。
しかし的が外れた者は的を射た者に聞かなくてはならない。
だが、聞いたことばかりをしていてはいけない。
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木の花ファミリー創立メンバーのまりちゃんは、昔、いさどんからこんな言葉を貰ったそうです。分からなくても一生懸命にいさどんに食らい付いていったまりちゃん。その様子はいさどんブログ「15年目の合格」に描かれています。以下、一部引用しますね。
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本当に出来が悪かった。まれに何も滞りのない1日が過ぎようとしていても、「今日は何か心配りをしたのか」のいさどんの一言から始まり、「正直、素直」が身についていない私は、正解を出そうと悪戦苦闘、最後は自分の正直が何なのか、分からなくなってしまう始末。丁度、昔のジャッキー・チェンの映画で、師匠は全部を語らず平然としている中で、師匠にへばりついて痛い目をしながら技を学んでいく、あんな感じです。
その日々の中で、いさどんに言われてきたのは、「空気のような存在にならなければいけない。そこに居るのかいないのか分からないが、なしでは生きていけないものだ」。つまり、自己主張するのでもなく、でしゃばりもせず、しかしそこにいて、この道には欠かせない者になれ、ということ。
いさどんは今のように全部を語らないので、私が自分で考えようとしない時には、「勘違いするな、寄り添っていくのが似合う魂と、一人で立つ魂がある」、つまり私は後者であるということ。
「グレードは違うが、俺と同じコンピューターをもっている」。つまり、的外れをなくし、いさどんと同じものの解釈ができるようになるはずだということ。
私はこの3点をいつも心に留めて、学び続けました。
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いさどんの側で考え続け学び続けたまりちゃんは、今まさに空気のような存在となっています。先日、そんなまりちゃんと沢山話をする機会があり楽しい時間となりました。まりちゃんとはいろいろな話をしましたが、特に印象に残っているのは、以下のまりちゃんの言葉です。
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広島、長崎の原爆記念日があり、終戦記念日がある8月は毎年、戦争に向き合う季節。
戦争での人間の酷い行いは人間の可能性を示していて、人間はそこまで行くということ。それは誰の中にもあること。それを否定するのではなく、それを知って、淡々と受け取って、だからこそ尊い道を行く。この世界の全部を知って、醜いを否定せずにその上で美しいを表現していく。そこに感情は挟まない。それは受け入れるというのとも少し違う。受け入れるというと「無理して自分の中に入れる」という感じが含まれるが、ただ淡々と「醜い」を見ていって、そして「美しい」を表現する。
それは一人ひとりの人間にも言えて、自分の中の最悪を知って、それを否定せずに認識し、その上で尊い道を行く。酷い自分の実態を知ることが変化、成長への一番の近道。
例えば、「やっていきます!」とか宣言する人とかいるけれども何をやっていくんだろう?と思う。宣言なんかするよりもしっかりと自分を見つめていけば、自ずとやることは見えてきて、変化していく。宣言する人ってけっこう酷い自分を認めずに切り捨てようとしている。それは良いものでありたいと思っているだけで、結局何も変わらない。
自分の中の対極の可能性、醜いを知って、その上で美しいを目指す。ただそれだけ。
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これが僕ら木の花ファミリーが心掛けている生き方です(^-^)
(右から)いさどん、まりちゃん、あまのくん |
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