自分のすべてと向き合いみんなの中で溶けていく

2019年2月2日に開催された富士浅間木の花祭りを前にして、僕は昔に書いた二つの文章を思い出していました。一つは2010年12月7日、約8年前に書いた以下の文章です。

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メッキがはがれたのだと思う。困難からは逃げて、自分の都合の良いように解釈し、嘘をつき、びくびくして、いつも自分をみんなが忘れてほしいと願う。自分は生きる資格のない人間で、本来なら死ななければならないけれど、死ぬことも許されない。だからもがき続けるだけ。そんなふうに思って生きてきた自分。
でも、ここ数年そんな思いは忘れていた。でも時々「しくしく泣いちゃう感じ」として出てきた。絶望感と無力感。僕はやり過ごしていた。
自分に別の人格を作り上げることで、最低人間の自分を超えようとしてきた。そして、超えたと思っていた。でも、今、自分が噴き出してくる。結局、僕が今までしてきたことはメッキを塗っていただけ。剥がれてくれば、最低の自分が噴き上がる。
あの苦しみはもう味わいたくない。もうこのままぼーとして無気力に生きていたい。そんな気持ちが湧き上がる。そうしたい。
でもそれはできない。僕はもうあまりにも木の花のみんなと関わりすぎた。僕の心はもうすでに僕だけのものではない。はじめからそうか。世界と僕は一つなんだから。ここでの暮らしはその事実を分かりやすくみせてくれているだけ。

僕はこの地球に対して自分ひとり分の責任を負っている。だから投げ出さない。

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そしてもう一つが、2016年の木の花祭りの後に書いた以下の文章です。

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鬼はこの世界の道理を伝える存在であり、木の花祭りでは主役となっています。鬼が怒っているのは、相手の心が汚れているからであり、鬼はそれを教えてくれているのです。日々の生活の中で湧き上がる自分優先の心や気持ち、余計な感情。自らが鬼になることによりそれらと向き合い当日を迎えました。

鬼の舞ではアップテンポで舞い踊るシーンがあるのですが、頭を空っぽにして身体の力を抜いて、太鼓や笛の音、みんなの掛け声に身を委ねると楽に動くことが出来ます。それがただただ心地よいのです。


ずっと動き続けることが出来る。


そんなふうに思えました。


ところで、僕は昨日、ある人から以下のメッセージをいただきました。


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この世界に降りてくる前に、神さまはあなたに3つの名前を用意していました。3つの中で真ん中にあったものが「善文」であなたはそれを選んできたのです。それは正解でした。善悪の善。善が先に来ます。だけれども少し間違えると悪にもなります。そのことを心に留めておくことです。そして、あなたは「中野」の性を選んで両親のところに来ました。真ん中の「中」。そして野原の「野」。山ではなく広く広がる野原なのです。

みんなの中の「なかのん」


みんなの真ん中でしっかりと固めていくのです。


中(なか)を守るのです。


でも目立つ必要はないのです。

目立つのではなく深く深く沈みこんでいく。
奥で自分を広げて固めていくのです。

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僕はずっとどちらかというと端っこにいることを好んで来ました。あんまり自分が真ん中にいるという意識を持ったことはありません。その意識を転換させる時が来ているのだなと感じています。

真善美を兼ね備えた人間になっていく。その誓いとして真ん中の字をとって「善(よし)」と付け、そして卯年の守り本尊である文殊菩薩から字をいただき「文(ふみ)」と付ける。(僕は卯年生まれです。)これは僕が勝手に創っていた名前の由来ですが、「善」は真善美の真ん中の字となっているのです。


僕はみんなの真ん中を生きる。


でもそれは目立つことでも際立つことでもなく、みんなの中に溶けていくことなのだと思います。目立とうとすると、きっとすぐに偽悪醜の方へと転げ落ちていくことでしょう。鬼の舞にて、太鼓や笛、みんなの掛け声と溶け合っていったように、日々、みんなの心の中で溶け合っていくことが大切なのだと思います。


溶けていく。その中で天と繋がり柱も立てていく。


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僕の中にはずっと「自分は生きている意味も価値もない人間だ」という想いがあります。それは自分がずっと流れに沿わない天から外れた想いを抱えていて、天から外れた存在だという想いがあるからです。その一方で、僕の中には、精神の高みを目指し、天と一つになろうという気持ちもあります。この両極の想いが絡み合う中で僕の中には日々、様々な感情が生まれています。

2010年12月、自分と向き合うことに疲れた僕は「メッキを塗っていただけ」と表現していますが、そうではありません。最低だと思える僕も、それを超えようとする僕も、全部自分だから、日々の暮らしの中でそのどちらが育っているか、ただそれだけなのだと思います。

天から外れた想いは、それを抱えることを許す神からの愛であり、自由の証ですが、それは自分の中心ではありません。自分の中心は常に天と繋がっています。だから「自分は生きている意味も価値もない」という想いは幻想に過ぎず、僕は、すべての存在と同様、天に生かされているものとしての意味と価値を持つのです。

天から外れた想いは、僕に苦しみや滞りを与えますが、それと向き合うことで僕は謙虚な気持ちを育むことが出来ます。そして、自然から離れた人工的な社会で暮らす今の人間は、それだけ天から離れ、天から外れた自分勝手な想いを抱える存在となっています。自然災害や異常気象、戦争や紛争、人間社会の対立や分断などはその表れで、だから天から外れた想い抱えることは今の人類を象徴しているとも言えるのです。

天から外れた想い。

そこから生まれる苦しみや悲しみ、惨めさや怒り、絶望感や無力感。

僕はそれらすべてを否定せずに自分に相応しく与えられているものとして向き合っていきます。と同時に、その想いが周りにもたらして来た軋轢や痛みにも想いを馳せます。流れに沿わない想いは周りや世界を混乱させます。だから僕は加害者とも言えます。その上で、それらを自分の中心から生まれる喜びや希望、誇りや充実感と混ぜ合わせてみんなの中で溶けていきます。

自分のすべてと向き合いみんなの中で溶けていく。

そうすることで、この世界のすべての想い、ネガティブなものもポジティブなものも、すべてが溶け合い調和の中で活かされる世界が実現するように。そのために必要な天の道理を自分と世界に通すために。僕は鬼となって舞い踊るのです。

ということで以下、今年の富士浅間木の花祭りの様子を紹介しますね。



鬼の面(神寄せの神事にて)
水の御用・お水合わせ
世界各地、日本全国103箇所から集まったご清水が湯釜の中で一つになります。

楽の舞
一の舞
地固め - 扇
山見鬼
山を割り、地中に封印されたエネルギーを噴出させる力強い鬼。
花の舞 - 盆
花の舞 - 扇
「榊鬼」山見鬼が踏み固めた地に天の道理を降ろし、魂を入れる。
(榊鬼と翁の問答はこちらをご覧ください)
三つ舞 - 扇
三つ舞 - 矢剣(やち)
四つ舞 - 矢剣(やち)
女郎囃子
瀬織津姫の舞
瀬織津姫は男神・天照大神の妻神で、封印されてきた水の神様です。
「金神様」封印されてきた地球神、国之常立神です。
(金神様と翁の問答はこちらをご覧ください。)
このはな八重の舞
同じく「このはな八重の舞」
「茂吉鬼」蜂巣(お宝)を落とします。
「湯囃子」湯釜のお湯を場内に振りまき清めていきます。
獅子舞
「火の御用」祭りで使った道具などを燃やし天へと還します。


水の御用・お水送り」湯釜で焚き上げたご清水を地球へと還します。


ところで、今年の木の花祭りでは新しい鬼として、青鬼と赤鬼が生まれました。緑鬼は北欧、赤鬼は北米(ネイティブ・アメリカン)を代表する鬼です。僕は赤鬼を演じることになり、より天からの気を身体に通すことが求められましたが、なかなかそれが出来ず「気が通りにくい身体の構造をしている」というフィードバックも貰いました。

天からの気が通らない。

それは天から外れた想いを抱えてきた自分の状況と重なるように思えました。そういう僕が大切な役割を頂くのも何かの巡り合わせで天の意志とも言えます。だからそういう現実と向き合い、気持ちを入れてだけだなと思い、当日を迎え、現時点での精一杯を表現しました。

しっかりと演じることが出来たとは言い切れません。

でもこれが僕の実態で現実。実態は常に天と繋がっていて、そこと向き合い価値を積み上げていくことに生きることの本当の意味があります。そしてその位置に立ったトキ、この世界で起きるすべての出来事は天へと至る祝福となるのです。だから僕はこれからも努力を続けていきます。

自分のすべてと向き合いみんなの中で溶けていく。

それは天へと至る僕オリジナルの旅路、これからもずっと歩み続ける旅路です。

「緑鬼」北欧を代表する鬼です。
「赤鬼」北米(ネイティブ・アメリカン)を代表する鬼です。


自分や世界の混沌や混乱を生きて、そこに光を通していく。

1月26日の朝日・富士宮市柚野(諏訪八坂山神社)にて撮影)

2019年2月2日(土)、富士浅間木の花祭りが開催されます。このお祭りには毎年、日本全国及び世界各地からご清水を送っていただいていますが、祭事の前にはそれらを釜戸の中で融合させます。昨年の祭りの際、その儀式を行ったひろっちは以下のような想いを発信しています。

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湯釜です。

先程、かまちゃんサポートの元、世界各地、日本全国から届けられた清水を、釜にて融合させていただき、ただ今火にかけて温めています。
 
いつもの事ですが、この瞬間は、何とも言葉で言い表し難いものがあります。
 
世界中、日本中の神々様、精霊様達がここ富士の麓にお集まりになり、一つに融合していくのです。
空を飛び海を渡り、陸を通って、遥か遠くの精霊が集まっておられるのです。
 
釜の中の水は、何処からどう見ても一つです。
そこには堺も何もありません。完全に一つに解け合い混ざり合っているのです。

まさに世界が一つになっていく弥勒の世界を完璧に表現しています。

そしてそこにはそれを届けてくださった沢山の皆様の想いも入っています。

この祭りの意味に賛同する人の想いが祈りが願いが集まり、そして一つになっていきます。

手に取り、釜に注いでいく一つ一つの水がとっても重いです。
その様を目の当たりにしてシビレます。あまりに尊くて、そして有り難くて涙が出ます。
 
本当に痺れます。
何とも大切な事をさせられていると実感します。
 
ありがとうございます。
ありがとうございます。
勿体のうございます。
 
惟神(かんながら)たまちはえませ

でわ舞庭で会いましょう。




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祭りでは、日本全国及び世界各地から集まった水が、湯釜の中で混じり合い、その周りを舞手や観客が渾然一体となって舞い踊り調和を表現していきます。

水が混じり合っている。

そんな状態を表現する言葉があって、それは「混沌」です。混沌の「混」は「まざる」という意味で、「」の部首「さんずい」は「水」を表し、「屯」は「たむろする、寄り集まる」という意味で、「塞がって水が流れない状態」を意味します。

混沌(こんとん)

辞書で調べると、「天地創造の神話で、天と地がまだ分かれず、まじり合っている状態。カオス。」「入りまじって区別がつかず、はっきりしないさま。 」となります。

混沌(こんとん)

カタカムナで読み解くと、「転がり出て統合する」動きを強めるものとなります。

そしてジイジは混沌という言葉について以下のように語っています。

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混乱とは、泥の中にいるということ。その泥をかき混ぜて、活性化し、芽が出ると、そこには蓮の花が咲く。



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と・・・・ここまで書いて気付いたのですが、引用文でジイジは、「混沌」ではなく「混乱」と言っていました。ここまで書いてきたことは、このジイジの言葉がきっかけとなって想いを巡らせたものなので、勘違いから生まれたものと言えます。混沌と混乱が混じり合って生まれたもので、それはそれで面白いのではないかと思います。

ちなみに混乱(こんらん)をカタカムナで読み解くと、「転がり出たエネルギーが強まる場所」となります。それは統合へと至るものと言えます。

だから自分や世界の混沌や混乱を恐れずにその中を生きようと思いました。が・・・

そうはいっても、混沌も混乱もそれだけでは統合・新しい動きには至りません。富士浅間木の花祭りで世界中から集まってきたご清水も、そのままずっと置いておいたら淀んでいきます。釜戸の「火」により、混じり合ったご清水が蒸発するからこそ、それらは世界中に循環し、調和の響きを広げていけるのです。

「火」は「ヒ(1)」、始まりであり「光」。

混沌や混乱に「光」をあて、それを認識し見通すからこそ、新しい動きが生まれるのです。

だから、自分や世界の混沌や混乱を恐れずに、思う存分にそれを表現し味わい生きる、と同時にそれらを見通し、道理の「光」を通していく。そんなふうに生きようと思いました。

2012年12月21日、銀河の冬至の前後7年である銀河の夜明けを経た今の時代は、混沌や混乱がピークを迎え、そこにどんどん光が差し込んでいくトキです。混沌や混乱は、新しい動きを生み出す元、それがピークを迎えた今は様々な可能性を秘めたトキと言えます。

気候変動や異常気象、戦争や紛争、経済格差や貧困、社会の分断や対立・・・・

今の世界はまさに混沌とし、混乱していますが、

僕は、混沌の中で混乱することで、人智を手放していく。そして生きる意味や価値をすべて出会う出来事に明け渡し、そこに天の道理という光を見出していくのです。

苦しみは天が与えた自由であり愛であり幅。

1月21日、富士山と満月(みほさん撮影)です。

私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います


この自然界、そして宇宙の法則は、すべて因果応報の仕組みで成り立っています。原因があって結果がある。そこでは、その原因にふさわしい現象が起きることが約束されているのです。こんなにありがたいことはありません。なぜなら、その者にふさわしい現象が顕れるからです。そして今、この場に立ち会う人々も、なぜここに集うのかというと、それにふさわしい生き方をしてきたからです。今皆さんは、どのくらいの意識を持って今日この場に集っているのか。その今の意識が、皆さん一人ひとりのこれから先の人生に形として顕れていくと同時に、社会を創っていくのです。それは当然のことなのです。

人類はそろそろ、そのことを知らなければなりません。出来事の表面だけを見て、それが不愉快だと言って解決しようとする時代は終わりました。これからどのような時代を生きていくのかは、その者が自らの人生をどのようにしようとしているのか、そこで何を望んでいるのかによって変わっていきます。つまり、生きることが自らの手の中にあるのです。これまで、なぜそれが人々の手の中になかったのかというと、自らの独りよがりで、この世界から与えられている命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからです。



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上記は2年前、マヤの新年の際にジイジ(当時はいさどん)が語った言葉です。

原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います

ジイジはそう語っていますが、問題や願いがあるトキ、現象ばかりを追い求めると、それは「欲」となり、自分や世界の実態からは切り離されていきます。

願いが叶わないということは、その願いが天の流れからは外れているということであり、天から外れた「想い」を抱えているということになります。その「想い」が強すぎると、生きている意味や価値を見出せなくなることもあります。

昨年、クローズアップ現代「”縁切り死”なぜ愛する人が突然…」を木の花ファミリーのみんなと観ましたが、誰にも分からないように死ぬ人たちも共有できない「想い」、天から外れた「想い」を抱え、生きる意味を見失っていたのではないか、そんな風にも思えました。

ですが、それらはすべて幻想とも言えます。なぜなら、この世界に存在するものはすべて、天の流れにより生かされているのであり、そのこと自体に意味や価値はあるのです。天から外れているのは、自我から生まれる「想い」であり、その結果、生きる意味を見失っているのです。人々がそのような「想い」を抱えるのは、自分の都合を求めて、命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからであり、欲を追い求めることで実態から離れ、自分を苦しめているのです。

その苦しみは、それだけの自由が与えられている証でもあります。

苦しみをカタカムナで読み解くと、「自由が維持された示しが満ちる」となります。天は人間の自我に自由を与えました。自分や世界の実態から離れた「想い」を抱え生きること。それは天が与えた自由と言えます。そして天は、それ以上離れていかないようにと苦しみを与えてくれているのです。とすれば、苦しみは天が与えた自由であり愛でもあります。苦しみと向き合い、苦しみを超えることは、自分や世界の実態へと至る道であり、そこから天との対向発生が生まれます。そのトキ、苦しみは生きる喜びへと変化し、今ある問題も解決へと向かっていきます。

天から外れた「想い」を抱え、思い通りに進まない。

その苦しみは天が与えた自由であり愛であり幅です。その苦しみと向き合う中で、自分や世界の実態にメスを入れていく。そのトキ、自ずから、自動的に変化していく現象を味わい、楽しむこと。それがこの世界に自分が生み出された意味であり価値なのです。


混乱とは泥の中にいるということ。そこから蓮の花は咲く。

1月22日、夜明け前のお月様です。

今から2年前、2017年1月20日にトランプ氏は大統領に就任しましたが、当時、その就任演説を聞いたジイジは以下のように語っています。

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トランプ氏の演説は、歴代の大統領の演説よりも極めて明快でわかりやすい。今までのアメリカ大統領の演説には、世界戦略に向けての含みがあった。しかし、トランプ氏の演説にはアメリカ的本音が観えてきた。それは、地球の富を握るトップの人々から人間の本音が出てきたということ。その本音とは、結局自らの利益しか考えていないということだ。

アメリカの姿勢はずっとそういうものだったが、世界の警察だの正義だのと言って、本音の部分を隠してきた。しかし実際にその根底にあったのは、自国の利益の追求だった。そういった意味では、地球上の人類の歩みのエゴの部分を表現した象徴的な国家と言える。それを外面上は美しく装っていたが、内部ではどんどん矛盾が膨らんで格差が広がり、今やアメリカの格差は世界の格差となった。
アメリカはまた訴訟の国でもあり、多くの人々が自らの利益のために歪んだ主張をして争っている。イスラム世界との対立も「テロとの戦い」と言って自らを正義の立場に置いているが、それも自らのイデオロギーや宗教的主張を正当化しているに過ぎない。本来、多民族が暮らす大らかな国でありながら、とても不正義で欺瞞に満ちた国であることが観えてきた。
今の世界情勢を観ていると、そういった今まで世界を支配してきた体制が終焉を迎えていることがわかる。さらに明快なことに、太陽や宇宙の星々が示しているターニングポイントが、地球上の時代の切り替わりを表しているということを、これまでにも何度も語ってきた。今、演説でどれだけ華やかに希望を語ったとしても、その延長線上に未来はないだろう。もし今までの体制がこのまま続くとしたら、それは宇宙の法則から外れていることになるのだから。
今のアメリカを代表とする世界情勢は、人間が欲のままに生きてきた時代の最後のあがきを、とてもわかりやすく表現している。アメリカは言わば大きく成長した分家のような存在であり、もともとの本家はイギリスだ。産業革命以降の世界戦略の結果が今の混乱に表れており、今、イギリスもまたアメリカと同じように、イギリスファーストを語り出した。これは、産業革命以降の世界をリードしてきた物質的発展の象徴である国々が、終焉を迎えたということだ。そのように捉えると、やっと訪れた新たな時代のメッセージが現実となっていることを感じて、心地よい思いにもなる。


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先日、イギリス下院議会で、EU離脱案が大差で否決されました。そしてアメリカでは、メキシコ国境の壁建設を巡る対立から予算の執行、政府機関の一部閉鎖状態が続いています。上記ジイジの言葉から2年が経ちますが、実際にアメリカもイギリスも政治が機能しない状態となってきています。そして、これは今の世界の一人ひとりの生き方の反映となっています。上記の言葉に続いてジイジは以下のように語っています。

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これまでは、欲や感情に任せ、物事の本質を失った者たちが自らの内から湧き出てくる欲望のエネルギーに翻弄されて闇雲に時代を創ってきたと言えるだろう。しかしこれからの時代は、ものの本質を捉え、それを情報として冷静に判断し、世界に貢献できる人材として、欲望のコントロールをできる人であることが求められるだろう。だから、次の時代を生きる個人は、その視点を持って日常を生きることが大事なのだ。
人間には、人それぞれの性質がある。その人らしく思考し、それが表現された時に、そこに調和が生まれたり、対立が生まれたりする。つまり、対立も調和も、その人の人柄が創り出しているものだ。
人々は、例えば日常の中の小さな家族のいがみ合いや身近な人との不調和は、国同士の戦争や地球環境の汚染とは別のものだと思っている。しかしその出来事の本質は、同じものだと考えるべきだ。毎日どのように生き、どのようなものを食べると病気になっていくのか、そしてそれを治すためにどのような医療を受けるのかということも、人々は戦争や環境汚染とは別だと思っているが、実はそういったことが積もり積もって戦争や環境汚染が起きている。
この世界は相似形で、小さなものから大きなものまで全て同じ仕組みで成り立っているのだから、実はとてもわかりやすい。宇宙を理解することも、地球を理解することも、生態系や環境を理解することも、人類社会を理解することも国家を理解することも、すべて自らの姿勢を観るのと同じように観れば、よく理解できる。自らの姿勢は自己責任によるもの。平和的に生きるのも対立的に生きるのも、自らの姿勢次第だ。
国家というのは、民主主義であっても共産主義であっても独裁国家であっても、必ず民衆の支持の元に成り立っている。人々が自らの日常の生活を平和的で健康なものにすれば、その連鎖は必ず国家に反映される。調和的で健康な人々の住む国家は必ず優れた国家になり、優れた国家が集う地球は優れたコミュニティになるだろう。それは何も難しくない。ところが人々は、どこかで自らとこの世界を仕分けている。だから世の中に対して不満を言い、ひどい時代だと嘆きながら、自分自身にメスを入れないのだ。

しかしそのことが本当に観えてきたら、世界に逆の現象が起きる。人々が自らの中にある矛盾を見出し、それを改善していくようになれば、世の中の問題は憂うべきことではあるが、世の中が混乱すればするほど「来たぞ来たぞ!」とその時が来たことを楽しめるようになるだろう。一たびその視点を持った者は、混乱が起きれば起きるほど、それを別次元から眺めるようになる。
混乱とは、泥の中にいるということ。その泥をかき混ぜて、活性化し、芽が出ると、そこには蓮の花が咲く。

富士山に登る時、登り口はたくさんある。しかし頂上へ近付くにつれて、道は一本になっていく。時代はいよいよ、真実を観る時がやってきた。それが21世紀であり、30世紀に向けて人類はどのように進化していくのか、地球上でどのように役割を果たしていくのか。今は個人も国家も皆、自らの損得勘定によって動いているが、個人ならば国家が自分に何をしてくれるのかではなく、自らが国家に対して何ができるのかを考える。国家は世界に対して何ができるのかを考える。いよいよそういう時代がやってきたのだ。
あなたの責任はあなた自身が取ること。それによって、あなたはこの地球上に自らの意思を役割として反映する義務があるのだ。誰かがやってくれるのではない。ひとつひとつのことに魂を込めて、あなた自身がやるのだ。

人間の体は、地球全体からすれば点にもならないような小さなものだ。しかし心は、地球をいつくしみ、宇宙と一対になって対向発生するような壮大なスケールにもなれる。

そのような視点から現代の世界情勢を観てみると、いよいよ面白くなってきたぞ、とウキウキするね。

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人がその人らしく思考し、表現することで、調和や対立が生まれる、対立や調和もその人の人柄が生み出しているもの、そして、一人ひとりの日常のいがみ合いが戦争や地球環境汚染へと繋がっている。

ジイジはこんな風に語っています。

今までの時代、人々は自らの欲望を満たすために都合のよい社会を創ってきましたが、その姿勢が一人ひとりの人間性に反映されています。そしてその人間性が、この世界に孤立や対立を出しているのです。それは天体の動きが生み出したトキの流れと言えますが、銀河の夜明けを経て、その流れは大きく変わろうとしています。

一人ひとりの人間性が、この世界に、戦争や紛争、格差や対立、環境破壊や異常気象などの混沌を生み出してきましたが、混沌は泥であり、泥をかき混ぜ、その奥に眠る調和の種を見出し育てれば、美しい蓮の花が咲きます。今、混沌という泥は極まり、泥の中から蓮の花を咲かせるトキが来ています。だから今までの自分や世界を否定するのではなく、混沌を生み出してきた人間性にメスを入れ、その奥に眠る調和の種を育てていくのです。それは一人ひとり自分の責任で出来ることです。

調和を表す蓮の花が咲くには、混沌を表す泥が必要となります。混沌という泥と向き合いかき混ぜることで、美しい蓮の花が咲き誇ります。

トランプ大統領をはじめとする世界の指導者たちは今、混沌という泥をかき混ぜています。それは大切な役割ではありますが、新しい世界を生み出すには、それだけでは不十分で、その奥に眠る調和の種を見つけ育む必要があります。それは私たち一人ひとりに託されています。

だからまずは一人分、泥と向き合い、美しい蓮の花を咲かせ続けます。


未熟があるから成長できる

1月7日、天王星が始まりを表す牡羊座で順行となり、全惑星が順行となった日、ジイジが見えたビジョンを語りました。

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ジイジ:
今、たくさんの花飾りをつけた神様がおいでになった。観音様かと思ったが、観音のような繊細な顔立ちではなく、おおらかな丸い顔立ちのその方は大日如来だった。
大日如来は銀河神であり、僕の守護神。つまりそれは、神道でいう天之御中主のこと。
七色の光の柱がこちらに向かって降り注いでくる。広大な世界に余すことなく降り注いでいる。その虹色の光の柱のいたる所に、ラメのように光り輝く金粉が、宇宙空間を漂いながら虹の柱と共に降ってくる。全体が巨大な光のシャワーのように流れている。そのシャワーが眉間に降り注いでくる。
そのシャワーを浴びていると、何があっても生涯この役割を果たし続ける、という決意が湧いてくる。
(ジイジしばし深呼吸の時間が続く)

ジイジ:
なるほど、面白いね。今まで、光とは一直線に飛ぶものだと思っていたが、綿のように塊になっている。そしてその綿のような塊が発光している。それが光の実態なんだよ。我々は光の源から発せられたものしか見ていないから、光というものは一直線に進むものだと思っているけれど、光の発生の元は綿のようで、入道雲のように、もこもこもこもこと増殖し、それが光源となってそこから発射されるんだよ。つまり発光源は核融合のようなプロセスを経て光を発する存在となる。それが、光が発生する原理だ。無から有を生み出す原理は、核融合なんだよ。
光のイメージが完全に変わってしまった。これは、光の種を持てというメッセージなのか。そうすると光を受けるものではなく、光を発するものになれるということだ。その素質はみんな持っている。一人一人の中に光源があるから、そのスイッチが入れば、光を受けるものではなく発するものになれる。
みかこ:
それが目覚めるということかな。
ジイジ:
その目覚めは、過去に人類が目覚めてきたものとは異質のもので、生命の本質に目覚めること。宇宙の根源に目覚めるということ。
みかこ:
過去の目覚めはどういうものだったの?
ジイジ:
それは、ものの仕組みとか道理に目覚めることであって、それを悟りという。悟りというのは低いレベルから高いレベルまで、たくさんあるものだけれど、僕が今言っている目覚めは、根源にスイッチが入れば、心の核融合が始まるということだよ。だから今までとは異質のものなんだよ。
みかこ:
照らされる側から照らす側になるんだ。
ジイジ:
つまり自分に内在する宇宙にスイッチが入ったということ。
みかこ:
いわば、太陽に照らされていた惑星のような存在から、自ら輝く太陽となって、銀河の一員になるということだね。
ジイジ:
それでこそ、初めてセントラルサンの命(めい)が果たせる。
みかこ:
そうだね。直接セントラルサンの命(めい)が受けられるものになる。
ジイジ:
だから、光を受け取る側から、光源となることが大事なんだよ。光に照らされて真理の明かりを見るのではなく、真理の光を発する位置に立つことが、今までの人の悟りの道の奥にあったということなんだよ。
この肉体の器に入っていると、そのことを理解するのは難しいけれど、肉体から魂が解き放たれれば、その魂に相応しい次元に存在することになる。だから魂が何者であるかが大切なのであって、肉体の中にいる限りは、肉体の世界の限界の枠がある。だから、中にある魂の意識レベルが問われるんだよ。
(ここで、四拍手する)

これは宇宙創造の原理だから、気楽にやっているけれど、この宇宙の創造原理を理解して生きるということは相当な精神レベルにあるということだ。そこまでわかると、いろいろなことがどうでもよくなる。そして、わからなくても行ける人にならなければいけない。
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光を受け取る側から、光源となる。

このような高い志を持つトキ、僕は自らの未熟と出会います。未熟と出会って、苦しむのですが、未熟だから駄目なのかと言ったら、そんなことはありません。光を認識するためには闇が必要なように、この世界に認識や動きが存在するのは、相反する存在があるからです。

この世界に認識を生み出し、動きをもたらすために、天とは相反する存在として人間は生み出されました。完全なる天とは相反する存在である人間は、本質的に未熟な存在となります。だから未熟を否定することは、自らの存在を否定することになります。

完璧な存在はそのままで完璧なわけで、そこに成長はありません。未熟だからこそ成長があり、成長があるからこそ、感動があります。そのことに気づいたトキ、未熟は苦しみではなく成長へ繫がる喜びとなります。そして、未熟な存在が成長するためには柱となる指針が必要です。完全なる天が指針となり、未熟な人間が成長していく。完全なる天と未熟な人間、この世界にはどちらも必要であり、天と人間は本質的に対等なのです。

光を受け取る側から、光源となる。

このトキ、光源となるものは、自らの未熟なのだと思います。自らの未熟にしっかりと向き合い、成長し続けることで光となっていくのです。

高い志を持つトキ、自分が素晴らしい人間になったような気分になります。そういう気分に浸り過ぎると、自分の実態が見えなくなり、高い志は幻想となり挫折することになります。今まで人類は、たくさんの理想を語ってきましたが、その多くが幻想となり、挫折しています。それは光源となる自らの未熟と向き合って来なかったからであり、放っておかれた未熟は世界に混乱をもたらしています。

尊くあろうとすると、自らの未熟はそれとは反するもののように思えます。だから切り捨てたくなります。ですが、未熟を切り捨てる行為は幻想を生み出すだけです。

尊い教えをいただき、それに自分を合わせていく。

それが光を受け取る生き方であり、今までの生き方だとしたら、

自らの未熟と向き合い、成長という光を放ち続けていく。

それが、自らが光源となるこれからの生き方です。だから僕はそんな風に生きるのです。

ジイジ(右)と僕です。

苦しみは、神が人間に与えた唯一の救いである。

1月9日の太陽、とっても強い光を放っていました。

数日前、昨年放映されたNHKスペシャル「シリーズ人生100年時代を生きる」の第1回第2回をみんなで観ました。そして、認知症高齢者を数多く生み出している社会の現状を受けて、みかちゃんは以下のように語りました。

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テレビ番組を見ていて、増えていく痴呆老人の有様や、それを食い物にする老人施設の実態に、改めて現代文明の結果がこれなのだなと思いました。本来年を取るとは肉体的には衰えても、肉体の中に宿る霊性は高まっていくはずのところが、ただ仕事して食べて寝て生きた結果、何の霊性の進化もなく、むしろ痴呆という結果に至った人類。

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そして、ジイジは以下のようなことを語りました。

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このような現代社会の問題に触れた時、それを批判して、「木の花ファミリーが良い」と語るだけでは不十分で、僕たちがこの世界、そして人間を知り、心の道を歩んでいるのは、今までの社会があって、そこから見える景色を学んでいるから。この世界で起きていることはすべて自分のこと。出会う出来事、この世界の現状を受けて、僕らは心の道を歩んでいるのです。

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ここで話は変わって。

ジイジは昔、神様から以下の言葉を頂いています。

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苦しみは、神が人間に与えた唯一の救いである。苦しみと対面し、苦しみを乗り越えることが、その苦しみから解放される唯一の方法。今あなたが与えられている苦しみは、今までのあなたの生に対する答え。他の誰にも与えられていない、神からの救いです。

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仏教に四苦八苦という言葉があるように、生きていると苦しいことに出会いますが、最近思っていることは、その苦しみから目を反らし、苦しみをなしにしてしまったら、自分は「もぬけの殻」のようになるだろうということ、そして、この苦しみの奥に自分の生きる意味があるということです。

苦(9)を超えなければ、充(10)の喜びは得られない。

これは小学校の時に、校長先生が、卒業生全員に色紙に書いてくれた言葉ですが、この言葉も思い出します。そして、「もぬけの殻」という言葉から「痴呆」を連想しました。

人間社会はずっと、苦しみから逃れ、自らの都合の良い世界を生み出してきました。四季の変化に関係なく、快適な温度の中で暮らし、一年中何でも食べられるようになっています。その暮らしは快適なようで、大地、「生」の本質から切り離されたものとなっています。苦しみから逃れようとすることは、「生」から逃れようとすることであり、その結果が痴呆を多く生み出す社会となって表れているのではないかと思いました。

苦しみと対面し、苦しみを乗り越えることが、その苦しみから解放される唯一の方法。

苦しみは、逃れることでは、乗り越えることは出来ません。向き合うことではじめて乗り越えることが出来ます。

自然環境を見れば、気候変動による異常気象が多発し、人間社会を見れば、様々なところで分断や対立が見られます。苦しみから逃れようとしてきた「つけ」が回って来ているかのように、生きるのが困難な世の中となってきていますが、困難から生まれる苦しみと向き合い、それを乗り越えていくことで、人間がこの世界に生み出された意味を表現していけるのだと思います。だからこそ、

今あなたが与えられている苦しみは、今までのあなたの生に対する答え。他の誰にも与えられていない、神からの救いです。

この言葉を胸に日々を大切に生きていこうと思います。


突破口は気づきにある(2019年山羊座新月を迎えて)

以下は4年前の大人ミーティングでのジイジの言葉です。

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物事の捉え方はたくさんあってね。

善意で捉えようと思ったら、
この世界にある全てのことは、
善意になるんだよ。

ただ、
人にはそれを善意で捉える力がないだけなんだよ。

宇宙は全て善意でできている。

なぜかというと、
宇宙は調和でできているから。

調和は、
悪意では保てない。

調和は、
善意によってしか、
成り立たない。

だから、
物事を善意で捉えられないときには、
自分が未熟だと思わないといけない。

そこを悪意で捉えるということは、
自分を観ないで、
悪意は相手から来ると思っているのだけど、
悪意は、
自らの未熟さから生まれるものなんだよ。

だから、
自分が言っていることは全て、
自分自身を表しているんだよ。

そこに気付かないと、
自らを改めることはできないね。

人間というものは、
必ず自分の都合の良いように
答えを求めようとするんだよ。

だから、
自分の本心があっても、
そういった人たちは「けど」「でも」と言って、
本心と違う行動を取るんだよ。

そのカラクリをわかって、
自分自身に修正の目を向けられるようになったら、
人は成長できる!

そのためには、
自らの想いをどんどん外に出していって、
まわりからフィードバックをもらい、
客観的な視点を育てていくことが大切だね。




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すべては善意で出来ている。その一方で、この世界が、陰と陽、光と闇など、相反する存在の対向発生によって生み出されているのも事実です。天は自らを認識するために闇を生み出したと言われています。すべての動きはそこから始まっています。

認識を生み出し、動きを生み出すために、天とは相反する存在として自我は生み出されました。その存在理由は、天から離れるためではなく、天との対向発生から新しいものを生み出すことにあります。天とは相反する存在として生み出された自我は、本質的に未熟な存在となっています。その未熟のままに行動し、自分で生きていると勘違いすることで、社会に分断や対立は広がっていったのだと思います。

善意により繋がり愛が生まれ、調和がもたらされる

これもジイジの言葉ですが、この宇宙のすべてを生み出している善意は、すべての存在を繋げていきます。その善意の存在に気づくことで、未熟な自我と天との対向発生が生まれ、一人ひとりの特性が生かされ、豊かな個性が花開き調和した世界が生まれるのだと思います。

自分の中の奥の奥を観たら、この世界の大本の想い、善意により繋がりたいという気持ちしかないのだと思います。ただそれだけで、それはニュートラルな想いなんだけれども、例えば、アピールしたい気持ちが生じたり、なんでもないふりをしたくなったり、分かって欲しいと甘えたくなったり、すねたり、一人になりたくなったりするのは、魂の形が生み出すパターンに過ぎないのだと思います。そのパターンとパターンが絡み合って人間社会は複雑になっていくのですが、この魂の形は見通すことで超えることが出来て、これを超えて全体の中で生かしていくことが、悟り(差取り)であり、そこへと至る過程が、一人ひとりのオリジナルな物語であり、心の道であり、この世界に豊かな彩りをもたらすのです。

だから僕の心掛ける姿勢はこんな感じとなります。


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我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分の想いを通そうとしても、突破できないのは当然と言えます。ですが、人はそれを周囲のせいにすることもあります。自分の考えは正しいのに周りの理解がないから実現出来ない。こんなふうに考え、それに固執し、その結果、停滞していくのですが、それも自分の想いが生み出している現実です。

気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。




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生きていれば様々な課題や問題に直面しますが、それは今までの自分の人生の結果であり、今の「想い」が生み出しているものです。それでも理解を求める気持ちは生まれますが、その気持ちを超えて、ただただ大本にある善意の心で世界や他者を理解し繋がっていく。そうして新しい動きを生み出していく。僕はそんなふうに生きていきます。

1月6日午前10時29分に山羊座新月となりました。2019年、最初の新月を迎えて僕はこんなふうに自分の姿勢を確認しました。


1月3日の太陽。この日の太陽は1年で最も地球に近づいていました。


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