1月21日、富士山と満月(みほさん撮影)です。 |
私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います。
この自然界、そして宇宙の法則は、すべて因果応報の仕組みで成り立っています。原因があって結果がある。そこでは、その原因にふさわしい現象が起きることが約束されているのです。こんなにありがたいことはありません。なぜなら、その者にふさわしい現象が顕れるからです。そして今、この場に立ち会う人々も、なぜここに集うのかというと、それにふさわしい生き方をしてきたからです。今皆さんは、どのくらいの意識を持って今日この場に集っているのか。その今の意識が、皆さん一人ひとりのこれから先の人生に形として顕れていくと同時に、社会を創っていくのです。それは当然のことなのです。
人類はそろそろ、そのことを知らなければなりません。出来事の表面だけを見て、それが不愉快だと言って解決しようとする時代は終わりました。これからどのような時代を生きていくのかは、その者が自らの人生をどのようにしようとしているのか、そこで何を望んでいるのかによって変わっていきます。つまり、生きることが自らの手の中にあるのです。これまで、なぜそれが人々の手の中になかったのかというと、自らの独りよがりで、この世界から与えられている命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからです。
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上記は2年前、マヤの新年の際にジイジ(当時はいさどん)が語った言葉です。
原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います。
ジイジはそう語っていますが、問題や願いがあるトキ、現象ばかりを追い求めると、それは「欲」となり、自分や世界の実態からは切り離されていきます。
願いが叶わないということは、その願いが天の流れからは外れているということであり、天から外れた「想い」を抱えているということになります。その「想い」が強すぎると、生きている意味や価値を見出せなくなることもあります。
昨年、クローズアップ現代「”縁切り死”なぜ愛する人が突然…」を木の花ファミリーのみんなと観ましたが、誰にも分からないように死ぬ人たちも共有できない「想い」、天から外れた「想い」を抱え、生きる意味を見失っていたのではないか、そんな風にも思えました。
ですが、それらはすべて幻想とも言えます。なぜなら、この世界に存在するものはすべて、天の流れにより生かされているのであり、そのこと自体に意味や価値はあるのです。天から外れているのは、自我から生まれる「想い」であり、その結果、生きる意味を見失っているのです。人々がそのような「想い」を抱えるのは、自分の都合を求めて、命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからであり、欲を追い求めることで実態から離れ、自分を苦しめているのです。
その苦しみは、それだけの自由が与えられている証でもあります。
苦しみをカタカムナで読み解くと、「自由が維持された示しが満ちる」となります。天は人間の自我に自由を与えました。自分や世界の実態から離れた「想い」を抱え生きること。それは天が与えた自由と言えます。そして天は、それ以上離れていかないようにと苦しみを与えてくれているのです。とすれば、苦しみは天が与えた自由であり愛でもあります。苦しみと向き合い、苦しみを超えることは、自分や世界の実態へと至る道であり、そこから天との対向発生が生まれます。そのトキ、苦しみは生きる喜びへと変化し、今ある問題も解決へと向かっていきます。
天から外れた「想い」を抱え、思い通りに進まない。
その苦しみは天が与えた自由であり愛であり幅です。その苦しみと向き合う中で、自分や世界の実態にメスを入れていく。そのトキ、自ずから、自動的に変化していく現象を味わい、楽しむこと。それがこの世界に自分が生み出された意味であり価値なのです。
上記は2年前、マヤの新年の際にジイジ(当時はいさどん)が語った言葉です。
原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います。
ジイジはそう語っていますが、問題や願いがあるトキ、現象ばかりを追い求めると、それは「欲」となり、自分や世界の実態からは切り離されていきます。
願いが叶わないということは、その願いが天の流れからは外れているということであり、天から外れた「想い」を抱えているということになります。その「想い」が強すぎると、生きている意味や価値を見出せなくなることもあります。
昨年、クローズアップ現代「”縁切り死”なぜ愛する人が突然…」を木の花ファミリーのみんなと観ましたが、誰にも分からないように死ぬ人たちも共有できない「想い」、天から外れた「想い」を抱え、生きる意味を見失っていたのではないか、そんな風にも思えました。
ですが、それらはすべて幻想とも言えます。なぜなら、この世界に存在するものはすべて、天の流れにより生かされているのであり、そのこと自体に意味や価値はあるのです。天から外れているのは、自我から生まれる「想い」であり、その結果、生きる意味を見失っているのです。人々がそのような「想い」を抱えるのは、自分の都合を求めて、命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからであり、欲を追い求めることで実態から離れ、自分を苦しめているのです。
その苦しみは、それだけの自由が与えられている証でもあります。
苦しみをカタカムナで読み解くと、「自由が維持された示しが満ちる」となります。天は人間の自我に自由を与えました。自分や世界の実態から離れた「想い」を抱え生きること。それは天が与えた自由と言えます。そして天は、それ以上離れていかないようにと苦しみを与えてくれているのです。とすれば、苦しみは天が与えた自由であり愛でもあります。苦しみと向き合い、苦しみを超えることは、自分や世界の実態へと至る道であり、そこから天との対向発生が生まれます。そのトキ、苦しみは生きる喜びへと変化し、今ある問題も解決へと向かっていきます。
天から外れた「想い」を抱え、思い通りに進まない。
その苦しみは天が与えた自由であり愛であり幅です。その苦しみと向き合う中で、自分や世界の実態にメスを入れていく。そのトキ、自ずから、自動的に変化していく現象を味わい、楽しむこと。それがこの世界に自分が生み出された意味であり価値なのです。
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