非暴力と言えば、ガンジーによるインド独立運動が有名ですが、「いさどんの七夜物語-第七夜「太陽の導き」」の中にそのガンジーについての言葉があり、とても印象に残りました。以下、その言葉を紹介します。
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そして、ガンジー。平和を訴え、非暴力・不服従をうたいました。その時の映像をよく観てみると、暴力をふるうイギリス兵に対して、非暴力を掲げて果敢に挑戦する、非暴力の暴力をふるっている人たちがいるのです。
それを非暴力と言うのでしょうか。その結果どうなったかと言うと、最後には非暴力が「勝った」と言うのです。暴力がないところに、勝ったも負けたもないはずです。そこでは、ただ銃を使わなかったとか相手を殴らなかったというだけで、精神はイギリス兵と同じなのです。
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非暴力とは何か?
この文章を読んで以来ずっと僕の中にはその問いがありました。
非暴力って何だろう????
話しは変わって。
最近、僕は、「豊かな人間性を育み、結果、世界を豊かにしていく」の中で日本国憲法について書きました。そこでは、「一人一人が平和な人間性を育み、結果、平和憲法に顕されることが大切で、人間性が育まれることなく、憲法で平和を謳っても意味がない」と書いています。そして、このブログをFacebookでシェアしたのですが、それによりいろいろなフィードバックをいただきました。以下、いくつか紹介しますね。
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自分の身は自分で守らなければならない。平和を守るためには警察官が必要。
家族や大切な仲間がやられたら理性を保つのは難しい。
チベットやモンゴル、ウイグル、ブータンなどのおぞましい現状を知ると、非暴力主義が通るとは思えない。
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これらのフィードバックを読みながら、僕の中に非暴力のついての言葉が沸いてきました。
それはこんな感じです。
チベットやモンゴル、ウイグル、ブータンなどでおぞましい状況にあり、自分が被害者の立場だったら・・・と想像し胸を痛め、非暴力の難しさを感じる。それと同時に自分が加害者でもあることを理解する必要があると思うのです。多くの人が人間の残虐性を一部の虐殺者に押し付けて自分を見ていないのではないでしょうか?
非暴力主義は自身の「汚れ・残虐性」を深く認識し、それを乗り越える作業と共にあるべきものだと思うのです。現状の非暴力主義は抑圧された側の抵抗としてクローズアップされることが多いように感じますが、非暴力主義は本来、被害、加害を包含し、それらを超えた立場へと精神性を高める取り組みなのだと思います。
そしてこれが達成された時、被害、加害という枠組みがなくなり、真の平和へと至るのだと思います。
そしてこれが達成された時、被害、加害という枠組みがなくなり、真の平和へと至るのだと思います。
ガンジーはインド独立をもたらした英雄です。尊敬されて然るべき存在です。
ですが、その後、インドからパキスタンが生まれ、両者に争いが生じました。
平和はいまだ実現していません。
ガンジーは抑圧されたものが抵抗する手段して非暴力・非服従を掲げました。
それはあの時代、あの状況では誇り高い取り組みだったのだと思います。
ですが、それは対立軸を超えてはいませんでした。
僕は今、真の非暴力とは意図を手放すことだと思っています。
「天とは何かを尋ねると・・・」でも書いたように、すべてが一つのこの世界で、人間はそれぞれ意図を持ち、この世界に違いと彩りをもたらします。それらは世界を豊かにするのですが、こだわりが強くなると、違いが際立ち、対立、そして争いへと発展していきます。それが今の社会の姿です。
意図は浮かんでは消えて、また浮かびます。
その過程で天やみんなと混じり合い、変化が生まれ世界は発展していくのです。
それが自然な姿です。
ですが、人は自らの意図を所有し、それに囚われ、こだわることがあります。
そうなると、自然な流れは滞り、他者に苦しみを与えるようになります。
この状態こそが暴力なのだと感じています。
だから浮かんでは消える意図を手放し、自然な変化に身を委ねていこうと思っています。
またまた話は変わって。
昨晩の大人ミーティングでは、「ストッパーを外す」ということが話題となりました。
フィギアスケートの羽生結弦くんや体操の白井健三くんは新しい記録や技を生み出しています。
それは今までの常識を超える行動で、二人は常識というストッパーを外しているのです。
今までの常識の延長に未来があるわけではありません。
アメリカのオバマ大統領は広島訪問を決めました。
これはアメリカ大統領による初の被爆地訪問で、今までにはないものです。
北朝鮮の金正恩は「責任ある核保有国」として現在の核保有を正当化した上で、
「主権が侵害されない限り核兵器を使うことはない。」
「世界の非核化を実現するために努力する」とも述べています。
この発言を非難しているメディアが多いようですが、
今までの金正恩の発言と比べると理性が感じられるものなのではないでしょうか?
ここにも僅かですが、変化を感じます。
何かが動いているのは確かです。
人は自らの枠組みの中で何かを意図します。
その意図を手放し超えていく。
そんなふうに。
僕は分からない未来を自由に生きていきます(^-^)
ですが、その後、インドからパキスタンが生まれ、両者に争いが生じました。
平和はいまだ実現していません。
ガンジーは抑圧されたものが抵抗する手段して非暴力・非服従を掲げました。
それはあの時代、あの状況では誇り高い取り組みだったのだと思います。
ですが、それは対立軸を超えてはいませんでした。
僕は今、真の非暴力とは意図を手放すことだと思っています。
「天とは何かを尋ねると・・・」でも書いたように、すべてが一つのこの世界で、人間はそれぞれ意図を持ち、この世界に違いと彩りをもたらします。それらは世界を豊かにするのですが、こだわりが強くなると、違いが際立ち、対立、そして争いへと発展していきます。それが今の社会の姿です。
意図は浮かんでは消えて、また浮かびます。
その過程で天やみんなと混じり合い、変化が生まれ世界は発展していくのです。
それが自然な姿です。
ですが、人は自らの意図を所有し、それに囚われ、こだわることがあります。
そうなると、自然な流れは滞り、他者に苦しみを与えるようになります。
この状態こそが暴力なのだと感じています。
だから浮かんでは消える意図を手放し、自然な変化に身を委ねていこうと思っています。
またまた話は変わって。
昨晩の大人ミーティングでは、「ストッパーを外す」ということが話題となりました。
フィギアスケートの羽生結弦くんや体操の白井健三くんは新しい記録や技を生み出しています。
それは今までの常識を超える行動で、二人は常識というストッパーを外しているのです。
今までの常識の延長に未来があるわけではありません。
アメリカのオバマ大統領は広島訪問を決めました。
これはアメリカ大統領による初の被爆地訪問で、今までにはないものです。
北朝鮮の金正恩は「責任ある核保有国」として現在の核保有を正当化した上で、
「主権が侵害されない限り核兵器を使うことはない。」
「世界の非核化を実現するために努力する」とも述べています。
この発言を非難しているメディアが多いようですが、
今までの金正恩の発言と比べると理性が感じられるものなのではないでしょうか?
ここにも僅かですが、変化を感じます。
何かが動いているのは確かです。
人は自らの枠組みの中で何かを意図します。
その意図を手放し超えていく。
そんなふうに。
僕は分からない未来を自由に生きていきます(^-^)
木の花ファミリーのみんな@田楽祭。昨晩の大人ミーティングでは田楽祭でのいさどんの話もシェアされました。 |
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