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諦めることで明らかにするトキ

秋分の朝の富士山と太陽です(^-^)


最新のジイジのブログではジイジが長年培ってきた「手かざし」の極意について語ってくれています。以下、その一部を引用します。

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手かざしを行なう上で理解すべき最も重要なことは、欲の心を絡めて行なうのではなく、人の内在する可能性を開発するために行なうということです。そういった内なる気付きを得るための機会にしたいものです。とかく人間は、健康になろうなどと、私欲の延長にそういった行為を行なうことにより、それが本来の人としての優れた気付きを得るためのものとは、違うものになってしまうのです。

そのためには、「私は空っぽですから、私をあなたのエネルギーの通り道にしてください」と天を意識することです。「治してあげよう」とか、「良くしよう」という私欲の意識を持って行なうことは禁物です。その場合、そこに自我が入ることにより、発せられるエネルギーはきれいなものとは言えないことになってしまいます。ですから、その発せられるエネルギーには、何も想いが入っていない美しいものとして、エネルギーの通り道を創り、それを圧縮して発しているだけの意識として行なうことが肝要です。



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手かざしを行う際、ジイジは、欲の心を絡めること禁止していますが、それはジイジの一貫した姿勢と言えます。昨年の7月26日、マヤの新年を迎えてジイジ(当時はいさどん)は以下のように語っています。

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私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います


この自然界、そして宇宙の法則は、すべて因果応報の仕組みで成り立っています。原因があって結果がある。そこでは、その原因にふさわしい現象が起きることが約束されているのです。こんなにありがたいことはありません。なぜなら、その者にふさわしい現象が顕れるからです。そして今、この場に立ち会う人々も、なぜここに集うのかというと、それにふさわしい生き方をしてきたからです。今皆さんは、どのくらいの意識を持って今日この場に集っているのか。その今の意識が、皆さん一人ひとりのこれから先の人生に形として顕れていくと同時に、社会を創っていくのです。それは当然のことなのです。

人類はそろそろ、そのことを知らなければなりません。出来事の表面だけを見て、それが不愉快だと言って解決しようとする時代は終わりました。これからどのような時代を生きていくのかは、その者が自らの人生をどのようにしようとしているのか、そこで何を望んでいるのかによって変わっていきます。つまり、生きることが自らの手の中にあるのです。これまで、なぜそれが人々の手の中になかったのかというと、自らの独りよがりで、この世界から与えられている命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからです。



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学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います



ジイジは「欲」について、上記のように述べていますが、「欲」が生まれるには、生まれる「余地」が必要なのだと思います。「欲」と「余地」。両方とも「よ」がつきますが、カタカムナで見ると、「よ」は「4」であり混沌を表す思念です。「よ」(4)は、「い」(5)の方に進めば、「よい」となるのですが、「み」(3)の方に戻ると、「よみ(黄泉)」となり、死の世界に入っていきます。「よ」はどちらにも転がりえる、混沌の中にあります。「よ」がつく言葉を見ると、喜び、良い、淀み、汚れなど両義的なのはその表れであり、それは「世」、人間の世の中そのものと言えます。


「余地」の「ち」は持続を表す思念であり、「余地」とは混沌が持続している状態、どう転がるか分からない何にでもなり得る状態と言えます。そして「欲」の「く」は自由を表す思念であり、混沌のままに自由に動きまわる状態が「欲」と言えます。

自我を与えられた人間は、自分の思考という「余地」を与えられ、そこから「欲」が生まれます。出発点が「自分の思考」なので、欲深い人は物事が思い通りになることを求めます。そしてそれは思い通りにならないことへの苛立ちや不安となり、時には未来への恐怖となって表れます。思い通りにならないことを恐れるのです。ですが、僕たちが出会う出来事は、自分の生きた証であり、相応しい結果です。ということは、苛立ち、不安となり、未来を恐れることは、自分自身に苛立ち、不安となり、自分自身を恐れることを意味します。

変化変容が本質であるこの世界では、未来は常に未知なるものです。そして、それは自分自身にも言えることです。現象を追い求める「欲」の心は、そのような未来や自分を思い通りにしようとします。その結果、未来や自分の現実が見えなくなり、混沌が深まっていくのです。「欲」の心は、混沌のままに動きまわることで、混沌を深めていきます。


気候変動や自然災害、紛争や戦争、貧困や餓死。今の世界には様々な問題がありますが、ただそれを解決しようとしても、それは現象を追い求める「欲」の心であり、混沌を深めるだけとなります。それらの問題を生み出している元の心、人間一人ひとりの姿勢を明らかにし、それを正していくトキ、今ある問題は自ずと消えていくのです。

今日は秋分の日、秋の真ん中です。収穫の秋は、種まきの結果をいただくトキであり、明らかになることで諦めるトキです。自我という「余地」が与えられたことで人間には自ずから「欲」の心が生まれます。それは絶えず続く心の動きです。だから人は、絶えずその心の動きを諦めることで明らかにし、自分と世界の現実と向き合い正していく必要があるのです。その動きが世界に彩りを生み出すと共に調和というバランスをもたらします。

国連総会が開幕しています。国連総会が毎年秋に行われるのは、「欲」の心を明らかにし諦めることの大切さを表しているようにも思えます。

そして、このブログを立ち上げたのも秋分の日、今日で丸4年となりました。秋分の日に立ち上げたのはたまたまですが、今思うと、このブログを通して表現し、自ら実践することも、「欲」の心を明らかにし諦めることにあります。それは最初に意図したこと(木の花の経済について書く)とは全く違うことですが、物事は自らの意図を超えたところで動いていきます。ブログ4年目、「よ」、混沌、「欲」の年を終えてそのことに気づきました。

今、世界は諦めることで明らかにするトキと迎えています。




境界線がなくなっていく

最近、畑隊のかとけんからバチルス菌(バチルス・チューリンゲンシス)という微生物についての話を聴きました。バチルス・チューリンゲンシスは、Bt毒素と呼ばれる殺虫性たんぱく質を生み出します。このBt毒素は、蛾などの害虫の腸を溶かし殺すのですが、それはアルカリ性の消化液で溶解されることで効果を発揮しています。人間など哺乳類の腸は酸性であるためBt毒素が溶解されることはなく害にはなりません。バチルス菌を作物の葉面に散布すると、バチルス菌がBt毒素を作り出し、それが葉を食べる害虫の胃を溶かすのです。

このBt毒素については面白い実験があります。それはマイマイガの幼虫の腸内細菌を抗生物質で一掃してからBt毒素を与えるというものなのですが、腸内細菌を一掃してからBt毒素を与えると、マイマイガは死ななくなったというのです。Bt毒素の特性はそれ単体で生まれるものではなく、他の細菌との相互作用で生まれているようなのです(「Bt毒素の謎~日経サイエンス2007年3月号より」参照)。

この話を聴いたトキ、これは僕ら人間にも言えることだなと思いました。一人ひとりの持つ個性や特性は他から切り離されて独立して存在するものではなく、他者や環境との相互作用の中で生み出されているものです。

この世界は鏡と言います。本当の意味で自分を理解していくには「ただ自分の心を見て・・・」というよりも、出会う出来事そのものとそれを通した心の動きを見ていく必要があるのです。それをジイジは以下のように語っています。

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生きるとは、自らの魂が生み出す「思い」を表現することです。思いは、それぞれの響きを持っています。私たちが生きて、思いを表現すると、その思いの響きがこの世界の何かしらに当たり、ふさわしい現象となって自らに返ってきます。自分がどのような響きを発するかによって、世界はその響きに正しく応え、ふさわしい出来事を与えてくれるのです。そうすると、人生で出会うすべての出来事は、自分自身を観ていると言えます。つまり、この世界は鏡なのです。

~ 中略 ~

生まれてきて、生きることは、命の仕組みです。それは宇宙の法則の中にあります。人生を生きるといろいろなことに出会いますが、その出会いは、自らの魂が何を発したかによって、それにふさわしい出来事が返ってきたということです。返ってきたものを見て、私たちは自分自身を知るのです。

その時に、返ってきたものを見て、これは私のものじゃない、誰か他の人のせいだ、世の中のせいだ、運が悪かったんだ、という人がいます。それでは、自分に都合の良いものが返ってくるように、お金で買いますか?そんなことはできませんね。それは、返ってきたものを自分のものとして受け取らないということです。


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自分の心だけを見て自分を知ろうとしたら、「自分はこう思っているのに周りは分かってくれない」「いろいろ周りに誤解を与えているけれども本当の自分は・・・」というように独りよがりな世界を作り出すことになります。自分の思っていること、感じていることを現実と照らし合わせて初めて自分の理解へと繋がっていきます。つまり自分を知るには世界という鏡を見ていく必要があるのです。

世界は自分の鏡。出会う出来事はすべて自分自身の顕れ。そう思うと自分と世界との間に境界はなくなっていきます。

ところで先に紹介した「Bt毒素の謎~日経サイエンス2007年3月」には以下のような記載もありました。

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バチルス菌自体にも謎がある。毒素はバチルス菌に何の利益ももたらさないのに,この菌が大量のエネルギーを費やしてまで毒素を作るのはなぜか。

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Bt毒素は蛾の腸に穴をあけ死に至らしめるのですが、蛾はバチルス菌に害を与えるわけではありません。バチルス菌単体で見たらBt毒素を作る必要性は全くないのです。ですが、バチルス菌は大量のエネルギーを使ってそれをし続けています。ここで考えられるのは、バチルス菌はバチルス菌のためだけに生きているわけではなくて、生態系全体を円滑に循環させるために生きているということです。意味を持たないBt毒素を生み出すバチルス菌の行為は生態系全体で見たら意味を持つのかもしれません。少なくともそれは人間にとっては益となる行為になっています。きっとすべての存在はそのもの単体のために生きているのではなくて、この世界の大いなる循環の中でそれぞれ固有の役割を果たしているのです。自分の存在は他者へと繋がっていきます。そう思うと、この世界から境界はなくなっていきます。

そしてバチルス菌は遺伝子組み換え技術にも使われていて、それはBt毒素を生み出す遺伝子を作物に組み込む行為です。Bt毒素を使った遺伝子組み換え作物については、問題が報告され安全性を疑問視する声も上がっていますが、これはバチルス菌を葉面散布する行為とは全く違うものと言えます。どのようなものであれそれを扱う人の心で結果は変わってくるものです。自分の利益のために遺伝子組み換えまでする心が何を生み出すのか。それはこれから人類が未来で確認することでしょう。

世界は自分の鏡。出会う出来事はすべて自分自身の顕れ。すべての人にとって世界はそんなふうで、それがすべて混じり合って、だから世界と自分の間に境界はないのです。

かとけんとバチルス菌の話を語り合った朝の落花生収穫です。


今の「認識」を手放していく

がんって言われた時は、ぽかーんとした。何で俺、元気なのにって。でも知れば知るほど、がんって訳の分からんやつだなあって興味が出てきた。病気というより、人間の生命活動そのものなんです。細胞が自ら死ぬアポトーシス(細胞死)って現象が生命に欠かせないことが分かってきた。ところが何らかの理由でアポトーシスが働かないと、死ぬはずの細胞がどんどん増える。それががんなの。へーって感心しちゃった。面白いよね。

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上記は9月14日の静岡新聞に掲載されていた解説・主張SHIZUOKA「生きる」という記事からの抜粋、膵臓がんと診断されたジャーナリストの北岡和義さんの気づきの言葉です。

生命が健全に生きていくためには死んでいく細胞が必ず必要。

この事実はとても興味深いことです。僕らの「生」は多くの「死」に支えられています。生きていくためには食べ物を頂くことになりますが、それは他の生命の「死」を意味します。そして、自らの身体を見ても、新陳代謝、多くの細胞の「死」によって支えられているのです。

現代社会は「死」を忌み嫌ってきました。「死」を嫌い「生」へと執着しているのが多くの人の生きる姿なのではないでしょうか。死ぬはずの細胞がどんどん増えるのが「がん」ということですが、それは「生」に執着している人々の映し鏡とも言えます。

それで生への執着がどこから生まれるかと言ったら、今の認識への執着から生まれているように思えます。多くの人が死ぬことにより自らの認識がなくなると思っていて、認識がなくなることに恐怖しているのではないかと思います。認識は人間に与えられた最大の恵みです。例えば、それは以下の言葉に表されています。

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遥か昔、この世界は、光だけの世界でした。光だけの中にいては、光は見えません。完全なる光そのものである神様は、退屈でした。「完全なる私は、完全であるがゆえに、私を知ることができない。」そこで神様は、完全なるその体を分けられました。光とは何かを分かるために闇を創り、それを自身からもっとも遠いところへと投げたのです。そして、もとの光へと還っていく長い長い道を創られたのです。


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光と闇、善と悪、陰と陽、相反するものが存在することにより生み出されたこの世界。その原動力は完全なる神による「自己認識」への探求と言えます。

そしてお釈迦様は、すべてが繋がり合って存在しているこの世界の中で「天上天下唯我独尊」と語らましたが、それは自らがなくなると「認識」が無に帰すからであり、この言葉は「認識」の価値を語られた言葉と言えるのです。

このような価値を持つ「認識」だからこそ、それがなくなることに人は恐怖します。ですが、人間は光から最も遠いところへと投げられた存在です。その位置からの「認識」は闇に覆われており、だからこそ人は苦しむことになります。それでもそれが恵みであるため人は自分の「認識」に執着をするのですが、その執着は光へと向かう歩みを止めてしまうのです。

光へと還っていく長い長い道。その道を歩むためには宇宙の本質に沿う必要があります。そして宇宙の本質は変化変容にあり、それは古いものを手放すということであり、「死」を受け入れるということを意味するのです。

自他を区別する人間の自我は、この世界に「自分都合の世界」という闇を生み出しますが、光へと還る道を進むことで、「認識」は常に新たなものとなり、闇はだんだん払われていきます。そしてすべては一つの光から生まれていることが見えてきます。自分=全宇宙=光そのもの。その「認識」に至り、その中で常に「認識」を新たにしていけば、個体としての自分の生に執着する必要はなくなります。なぜなら過去から現在、そして未来へと続いていく全プロセス、そしてこの宇宙の全空間が自分そのものとなるからです。その「認識」の下に、トキの流れの中に従い役割が終われば、自分の生、そして自分の「認識」も手放していけるのです。

みんながそんな境地に立ったトキ、すべての「生」、そして「死」が生かされ、この世界は大いなる調和の下に光輝いていくでしょう。そしてそのトキ、がんは必要なくなっていることでしょう。そんな世界に向けて僕は木の花ファミリーのみんなと日々の暮らしを営んでいます。

木の花ファミリーのみんな(韓国のソナエビレの人たちと)



木の花ファミリーで生きるということは・・・

2年前の9月、僕は木の花ファミリーの暮らしについての記事を書きました。以下、その文章を引用します。

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木の花ファミリーメンバーになるということは自我(エゴ)を超える道を歩むことです。今、多くの人は自我の赴くままに暮らしているので、自我を意識することはあまりありません。ですが自我を「超える」と決めることにより、その人の自我は浮き彫りになります。浮き彫りになることで自分と向き合うことになるのです。

 ~ 中略 ~


それぞれの自我はそれぞれの幻想(都合のよい世界)の中で暮らしています。70億人の人間が70億の幻想を持ち、世界が営まれています。

自我を超えることとはつまり自分や世界の実態に向き合い、真実を探求することです。実態に向き合いそれを知り、宇宙の法の下に自分や社会を位置付けていきます。そうすることで世界と自分が一つとなり、自分が無限の可能性に開かれていくのです。それは一人一人の自我に応じたオリジナルで個性豊かな道であり、何かを獲得していく人生ではなく、自分に相応しい出来事を頂き変化していく人生となります。

血縁を超えて人々が共に暮らす木の花ファミリーの暮らしは人間の実態を浮き彫りにします。人と人が深く関わることで、それぞれの人間性が浮き彫りとなり、向き合うことになるのです。自我の幻想の中で暮らしてきた人間にとって、その過程は確かに苦しみを伴います。思い通りにはならない経験をし、自らが抱える幻想が壊れていくからです。ですが、その苦しみを超えた時に真の喜びに出会えます。それは一人ひとりの本質が光り輝き、真の調和が実現した暮らしへと繋がります。


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そして、今年の夏、木の花ファミリーのホームページがリニューアルされ、そこに「木の花ファミリーとは」という文章が新しく掲載されました。以下、そこから引用します。

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人間社会は長い間、人々に一律になることを求めてきました。「こういう人生が良い人生だ」というモデルを作ってみんながそれを目指し、その結果、格差や対立を生んできました。けれども、本来この世界は多様性によって成り立っています。それぞれに違うからこそ、その違ったもの同士がつながることで美しいハーモニーとなり、豊かな命の世界が表現されるのです。

空を見上げれば、太陽には太陽の、月には月の役割があり、他の無数の星々もそれぞれにその星独自の役割を果たしながら、宇宙を巡り続けています。それは、壮大なる宇宙交響曲です。無限に多様な存在が連鎖し、互いに響き合いながら、ひとつの壮大なハーモニーを奏でており、その中を地球も共に巡っているからこそ、まるで約束されているかのように毎日地上に朝がきて、夜がきて、四季が巡って時が刻まれていくのです。もしも地球や太陽や他の星々が連携せずバラバラに存在していたら、私たち生命はたちどころに成り立たなくなるでしょう。つまり、宇宙の根本はつながることにあるのです。つながるとは、約束の元にある、愛です。

地球上に存在する870万種もの多種多様な生命の中の、たったひとつの種である人間。同じ種の中で、みんなが同じようなものであれば、きっともっと調和的であったはずなのに、人間は一人ひとりが極めて個性的です。なぜこれほどの多様性を与えられたのかというと、世界は私たちに、宇宙を表現することを託したのです。様々な個性を持つものが、互いに支え合い、活かしあい、つながって生きるように。そしてもっと豊かになるように。それは、宇宙の根本である愛の表現です。

これまでの人間は、互いの違いによって争ってきました。争い、分離し、自分の分が不足しないようにと必死になってかき集め、さらなる争いや矛盾を生んできました。しかし宇宙はもともと、完全なるフリーエネルギーの世界です。地球は秒速30kmという驚くべき速度で宇宙を移動しながら、長い間一度も燃料補給をしていません。太陽も、他の星々も、同じように高速で移動しながら一瞬たりともその光を消すことなく輝き続け、そのエネルギーは尽きることがないのです。この永遠なる調和の仕組みに沿った時、私たちも無限のフリーエネルギーの世界を生きることになるでしょう。

つながることを忘れ、分離して奪い合うエネルギー消費型社会では、人はどんどん傷つき、心が孤独になっていきました。しかし、すべてが調和し美しく循環するフリーエネルギーの世界は、とても穏やかです。穏やかで、心地良く、そこに出会うとやさしい心になれる。それが、私たちの生きる世界の本当の姿なのです。

木の花ファミリーは、私たちの生きるこの世界の本来の姿を表現する場として、誕生しました。それは、肉体を持って地球上に生まれた私たちの本住の地、魂のふるさとの表現です。

ですから、その美しい表現は、木の花ファミリーの生活の場だけでなくともいいのです。それは、地球の本来の姿であり、宇宙の実相です。人類は長い間、その目的地を見失い、歩んできました。長い長い道のりを経て、その歩みの目的地が「ああ、ここだったんだ」と誰もが気付き、自らを「おかえりなさい」を迎えられる場所。その表現が、木の花ファミリーが存在する目的です。

そこでは、真実に目覚めた人々が、一人ひとり他にはない、個性豊かな「個の花」を存分に咲かせることでしょう。そして、その色とりどりの花々がつながり、響き合い、美しい満開の大樹となるでしょう。もしも地球上のすべての存在が響き合い、つながって生きたとしたら、この世界はどれほど美しく、どれほど豊かになるでしょう。私たちはまだ、宇宙の中でも類い稀なる命あふれる星・地球の、本当の尊さを知りません。その大いなる可能性へ向かい、木の花ファミリーは日々、歩み続けているのです。


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木の花ファミリーのメンバーになるということは、自我(エゴ)を超える道を歩むこと、その行きつく先は、宇宙を表現すること、繋がり合うことで生まれる愛の表現です。自我(エゴ)に奔走された苦しみも、自我(エゴ)を超える苦しみも、宇宙の愛に触れることで癒され喜びへと変わっていきます。

自我(エゴ)は自分の都合で世界を体験することで、自分だけの世界、幻を生み出します。そしてその幻を守るために思惑を持ちます。自我(エゴ)を超える道は思惑を超える道とも言えます。思惑があるから思惑通りにいかないことで人は苦しみ傷つきます。それらはすべて自我(エゴ)が生み出す幻です。幻の奥にある自分と宇宙の実態、それは変化変容を繰り返し、常に未知へと進んでいきます。

宇宙を表現する

それは自他の区別を超えて自分が宇宙そのものである境地へと至り囚われがなくなった状態。起きる出来事はすべて自分自身の表れとして今この瞬間でいただくと同時に、大きな視点を持って今に囚われず未来へ向けて歩み続けることです。
自我(エゴ)を与えられた人間は、絶えず自他を区別し、自分だけの幻の世界を生み出します。そして、その視点から物事を比較するようになり、善悪、美醜、大小、多少、長短などの価値判断が生まれ、所有の概念や欠乏感、欲が生まれました。それは多様性の表現であるのですが、人々に苦しみや執着をもたらしています。

自我(エゴ)は多様性をバラバラにすることで苦しみや執着を生み出します。それは絶えず起きる心の動きです。自我(エゴ)を超えるとはその心の動きを見通すことです。そして、自分の想いや感情を他者の想いや感情と同じように扱いすべてを繋げていくのです。

私たち人間は、自然界、そして他者の存在により生かされています。太陽の光や水の流れ、大地や空気、そして風、それらがすべて繋がり合い循環しているからこそ私たちの生は成り立っています。元を辿っていけば、すべての存在は一つなのです。その視点から自分を眺め、世界に解き放ち響き合っていくこと。それが自我(エゴ)を超えるということであり、木の花ファミリーで生きるということです。

木の花ファミリーのみんなです。




差が融合され高次へと導かれていく

2018年9月6日の富士山です。

傷と怒りを愛と調和に変換していく」にて、僕は「ある出来事に傷つき怒った」と書きましたが、これは正確な表現ではなくて、僕はある出来事で怒り、その怒りがあまりに大きかったので、その怒りよって自分で自分を傷つけたのです。自分のコントロールを超えた怒りは周りだけではなく自分自身も傷つけます。僕はそんなふうに思っています。

この怒りは自分のコントロールを超えていて、思いもよらないものでした。そのトキの状況を冷静に見れば、それほど怒ることではありません。ですが、自分が怒ったというのが事実です。

思いもよらないことが起きて、それが自分に相応しく与えられて、その種が自分の中にあることを思ったトキ、僕は自分のことを分かっていないのだなぁということを思います。きっと本当の意味で完全に自分のことを分かることはなくて、現象を通して見ていくだけなのだと思いました。

種は時間とともに成長して芽吹き、現象となって表れます。ただその自然の流れを受け入れ、そしてそこから学び、新たな種を撒いていく。生きることはただそれだけなのだと思いました。その繰り返し、循環の中で僕は自然と同じように変化していきます。

僕の怒りは自分にとって思いもよらないもので自分を傷つけましたが、相手との絆を深めるきっかけともなりました。本当に何がどうなるかは分からないものです。

話は変わって。

僕は2年前の9月6日、「自分ごと」から全体性へと至る道というブログを書いています。このブログは僕にとって一つの到達点となっているのですが、そこでは以下のように表現しています。

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僕はずっと意識の関心が自分に向いていることが「自分ごと」だと思っていましたが、この認識は正確ではありませんでした。

この世界で自分を最大限に生かすために、自分を正確に知っていく。

そんなふうに自分に関心を向けるならば、それは「自分ごと」ではなく、世界のことであり全体性へと至る行動となるのです。その一方、途上国の支援など社会貢献と言われる活動をしていたとしても、それが自分都合になってしまっていたら、その活動は「自分ごと」なのです。

活動の動機をしっかりと観ることが大切です。

例えば、ODA(政府開発援助)ですが、本来、途上国のための援助のはずが、日本企業の利益に繋がり、途上国に累積債務と環境破壊をもたらす事例もあります(※Wikipedia「日本のODAの問題点」参照)。このような活動は決して全体のことを思った行動とは言えません。社会貢献活動を利用して日本は「自分ごと」で動いていたのです。しかも日本全体ではなく、一握りの人の利益のためであり、極めて「自分ごと」と言えます。

 ~ 中略 ~


今、この世界は「自分ごと」の集まりで動いているのです。

宇宙の法の下では、自他の区別を超えてすべてが繋がり生かしあっています。それから外れた「想い」や「行動」はすべて「自分ごと」なのです。世界のことを考えていても、社会貢献をしていても、「自分が」という想いに基づいていたら、それはやはり「自分ごと」となります。そして、「自分ごと」の想いや行動は、たとえそれが実現したとしても、この世界に偏りを生み出し、いずれ対立や格差、喪失などの滞りとなって現れるのです。

だから「自分ごと」を超えていくことが大切です。

自我が与えられた人間は、当然のように「自分ごと」の願いや想いを持ちます。そして、それは意欲にも繋がるものです。だから、それらを追い求めることは大切なことではあるのです。ただ、その際、宇宙の法を意識する必要があるのです。宇宙の法とは天の流れあり、それは時代が生み出しています。

自らの希望を追い求めながらも、天の流れを感じ、結果をいただき学んでいく。

そんな姿勢でいると、自分が高まり、自然と全体性へと至るのです。それは自分と向き合う旅であり、その旅は果てしない冒険であり、新しい発見は尽きません。新しい発見により自分がどこまでも果てしなく広がっていくのです。


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当時の僕は「自分の希望を追い求める」と書いていました。それは「自分の意図を持つ」ということであり、自分の意図を通して天と対話していこうと思っていました。今の僕は「意図を手放していこう」と思っています。意図を手放して、意図していないことを通して天の想いを知っていこうと思っています。

意図は糸。つなぎ合わせるものです。「イト」をカタカムナで見ると、「位置が統合する」となりますが、「位置(イチ)」の持っているエネルギーには「(差)サ」があります。位置の持つエネルギーの差が統合(融合)され高次へと導かれていく。そんな役割をするのが、「イト」なのだと思います。

意図が本来の役割、差を融合し高次へと導くエネルギーを発揮するには、他に対して開かれている必要があります。だから僕は意図を手放し他へと解き放っていきます。そして意図していないことの奥に大いなるものの意図を感じて、それと融合していくのです。

そのトキ、表現される世界はきっと、善なる愛なる調和の世界です。

傷と怒りを愛と調和に変換していく

木の花ファミリーでは今、木の花ファミリー憲章の改定に向けて検討を行っています。今、世界観概要についてはほぼ改定案が出来上がっていますが、今まで世界観概要に記載されていた以下の文章は、世界観・心磨きという項目を作成し、そこに使おうということになっています。

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「想い」はあらゆる価値判断を超えた善意と愛、そして調和から成ります。これは自然界から教えてもらえる事実です。自然界では、お互いの存在が生かしあっています。これは利他の精神の顕れです。善意により繋がり、愛が生まれ、愛により絆が生まれ、調和をもたらしているのです。悪、醜、偽、欲、貧など、この世でマイナスの価値を与えられている事柄も、すべてはこの「想い」、善意と愛と調和から生まれています。「想い」に立ち返れば、すべてはひとつなのです。

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人間は一人ひとり「想い」を持って暮らしていますが、その「想い」は、人間の自我、「自分」を優先し、他から区別する心から生まれています。自他の区別から生まれた一人ひとり「想い」がこの世界で響き合い、様々な現象を生み出しているのです。ですが、すべての「想い」は元々一つであり、元に立ち返れば、あらゆる価値判断を超えた善意と愛、そして調和へと至るのです。昨晩の大人ミーティングでジイジは上記の文章に触れて以下のように語りました。

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これは壮大なことを語っているように感じるかもしれませんが、日常のことを語っています。普段の些細な出来事をこのような意識で振り返ることが大切です。そして、被害者のように感じる出来事に出会った際も、そういう出来事に出会う因縁があるということです。そういうことを認識すれば、すべて善意と愛と調和の表れで、いつでも謙虚に生きることが出来ます。

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元の「想い」は一つ。そこから今の因縁を生み出している自分に想いを馳せれば、すべての出来事の背後に善意を感じることが出来ます。すると他者と繋がり愛が生まれ、調和を表現することが出来るのです。日常どれだけそのことを意識出来るか、それが肝心なのだと思いました。

別のところでジイジは以下のようにも語っています。

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生きるとは、自らの魂が生み出す「思い」を表現することです。思いは、それぞれの響きを持っています。私たちが生きて、思いを表現すると、その思いの響きがこの世界の何かしらに当たり、ふさわしい現象となって自らに返ってきます。自分がどのような響きを発するかによって、世界はその響きに正しく応え、ふさわしい出来事を与えてくれるのです。そうすると、人生で出会うすべての出来事は、自分自身を観ていると言えます。つまり、この世界は鏡なのです。

~ 中略 ~

生まれてきて、生きることは、命の仕組みです。それは宇宙の法則の中にあります。人生を生きるといろいろなことに出会いますが、その出会いは、自らの魂が何を発したかによって、それにふさわしい出来事が返ってきたということです。返ってきたものを見て、私たちは自分自身を知るのです。

その時に、返ってきたものを見て、これは私のものじゃない、誰か他の人のせいだ、世の中のせいだ、運が悪かったんだ、という人がいます。それでは、自分に都合の良いものが返ってくるように、お金で買いますか?そんなことはできませんね。それは、返ってきたものを自分のものとして受け取らないということです。


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先日、僕はある出来事に出会い傷つき怒るということがありましたが、それは自分が発した「想い」の響きが生み出したものであり、相応しく与えられたものです。そして、傷つき怒ったのは、自分の認識が、自他を区別した「自分視点」になっていて、元の「想い」へと至っていないからです。元の「想い」へと心を向ければ、そこに善意が見えてきます。そして、そこから学ぶことで他者に対する愛が生まれ、調和を表現できるのです。それは絶え間なく続けていく心磨きの道です。例えば、一瞬「善意」が垣間見られたとしても次の瞬間には「自分視点」に戻っていく。それは自我を持つ人間の特徴です。だからそのことを忘れずに元の「想い」へと意識を向け続けるのです。そうすれば、自分の「想い」に翻弄され、傷つき怒ることがだんだんなくなっていくでしょう。

僕の傷つきと怒りは「自分視点」が生み出したものであり、僕の未熟を表していますが、その背後に「想い」を馳せれば、種が見えて、そこに善意を感じることが出来ます。そこから見えてものを心に留めて学びを深めることで、傷と怒りを愛と調和へと変換していこうと思っています。

木の花ファミリーのみんな@稲刈り神事です。


環境と響き合って変化していく(2)



9月1日、木の花ファミリーでは稲刈り神事が行われ、みんなは収穫の喜びを味わいましたが、僕は体調を壊しそこには参加出来ませんでした。その前日、暑い中ジャガイモ定植をしたことが影響したと思われます。普段、基本的にオフィスで仕事をしている僕は、今年の夏、初めて日中畑に出たのですが、その暑さは今まで経験したことがないものでした。普段、畑や田んぼで作業をしている人たちは、こんな中作業をしてくれているんだなと感謝の気持ちがわいてきました。そして、気候の変化の厳しさを、実感を持って感じることが出来ました。そんな厳しさを伝えるものとして2100年の天気予報を掲載しているサイトがありますが、そこにはこんなふうに記載されています。

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2100年の夏も全国的に猛烈な暑さです。特に西日本や東日本では気温が上がり、高知県四万十市では、44.9度、名古屋で44度、東京でも43.6度と観測史上1位の記録を更新。この暑さの影響で、今年は今日までに熱中症で全国12万人が病院に搬送されています!昼間の気温が30℃以上の真夏日ですが、那覇で183日と6ヶ月、大阪で142日、5ヶ月近く、東京で107日、札幌でも47日となっています。この記録的な暑さはまだまだ続きそうです。


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今年は記録的な暑さと言われていますが、この暑さは今後も続くものと思われます。そんなことを思ったトキ、浮かんできた言葉が「環境と響き合って変化していく」というもの。これは2年前にジイジ(当時はいさどん)が語った言葉です。以下、その言葉を紹介します。

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地球温暖化や経済格差、紛争、難民、国々や民族の対立・・・・
現代社会は混沌としています。
混沌の中、その解決策を求める気持ちになるかもしれませんが、
そこには人生の深みがありません。

問題が生じている時、問題のないところにいって、みんなで幸せになろうとする。
それは良いことに聴こえるかもしれませんが、とても薄っぺらな話しです。
みんなで幸せになろうとする時、
幸せになるべき人間性があって初めて幸せになるのではないでしょうか?
人間性が高まらない状態で幸せを求めることが社会に何をもたらすのか?
そのことに想いを巡らせてみて下さい。

問題がある時、ただ解決策だけを求める。
それは新しい発想だけ貰って楽になろうとしている姿勢です。
その姿勢が人々を現実から引き離し停滞を生み出しているのではないでしょうか?
そこからは結局新しい発想も生まれないのです。

新しい発想は自分を放棄した時初めて生まれるものです。

この世界には法則性があります。
常にそれと対話していくこと。
それが天と共に生きるということです。

問題ごとに出会った時、ただそれを改善しようとしていく。
それは人間の知恵の中で良い生活を送ろうという心に繋がり、
その結果、天は離れていき、停滞が生まれます。

美しい蓮池を生み出しているのは水中で混沌としている泥の存在です。
表面に浮かぶ現象を生み出している奥の世界。
それを知り生かすことで人生は深まり花開いていくのです。

人は常日頃当たり前のように思考を組み立てています。
その思考は自分の枠内にあります。
知識として取り入れたものはその枠を超えることはありません。
ですが、自分の思考の背後にはこの時代の意志や物語があり、
自分がここにいる意味があるのです。

心を開くことにより、そういうものを織り交ぜて生きていく状態に変わっていく。

それは人間として生きる姿勢の変化です。

生きるということは本来、変化すること、未知なるところの向うことです。
星々は常に新しいところを運行し、自然は変化し続けます。
天は分からない未来を生きているのです。

時代は未知なる世界へ向けた変化を人間に促します。

時代に応えるために。

何かを貰って新しい自分になるのではなく、
環境と響き合い変化していける人間になっていくのです。

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今の学校教育は生徒に「答えを出す」ことを求めていて、答えを出すコツを覚えて早く答えを出せる人が優秀な人として評価されます。そして、学校教育で優秀と評価されることは社会に出る際に有利に働きます。そのため多くの人の思考は「答えを求める」ものとなっています。正解を知って、その正解に基づいて行動しようとするのです。

ですが、この世界の本質は未知であり変化変容にあります。本来、先に答えを知ることは不可能なのです。だから答えを知ってから行動しようとすると、現実の変化に翻弄され右往左往することになるのです。今、世界で起きている多くの問題は、人間のそのような姿勢の変化を促しているようにも思えます。

おおよその見通しは立てるけれども、答えは行った先で知っていく。心にそういう「マ」、空間を作っておくことが大切なのだと思っています。

カタカムナでは、「マ」は自転公転の運動によって区切られた空間でありこの世界そのものと言えます。そして現象が生まれるのはその縁(ふち)であり、そこで縁(えん)が
生まれます。心に「マ」を生み出すことは、「マ」の内部へと想いを馳せることになり、表面上の現象や縁(えん)の奥へと意識を向けることになります。

現象の奥にある「マ」は、見えない世界と言えますが、そこが響き合う空間となって自らの人生と世界に深みを与えてくれるのです。

特定の結果を求めることは、執着を生み出し幸せの範囲を狭めます。ただ環境と響き合い、そのことを味わい楽しむことが出来れば、どのような結果をいただいても充実した日々を送れます。

地球環境や人口問題などを見ると、これから確実に生きていくことが厳しくなることが予想されます。そのような現実と向き合い、心豊かに充実した日々を送るためには結果を求めずに環境と響き合っていく姿勢が大切になることでしょう。そしてそれはきっと調和の表現となり世界に平和をもたらします。

だから僕はそんなふうに生きています。


恵みいただきます(2)

昨晩の大人ミーティングで昨年の立春正月に書いた「僕はひっくり返った」をシェアしました。「ひっくり返り」とは立脚点を自分の側から世界の側へと転換することであり、自分の側から世界を見て世界を評価するのではなく、世界の側から自分を見て自分を正していく、そんなふうに生きていくことを意味します。

この文章は僕にとってとても大きな転機となるもので、それをあらためてみんなにシェアすることでその姿勢を自分に刻み込みました。

自分の側から世界を見る。

それが多く人々の生きる姿勢だと思っています。それで自分とは何か?と思ったトキ、僕の中には「天上天下唯我独尊」と「我思う、故に、我あり」の2つの言葉が思い浮かびます。そして、これらを僕の言葉で説明すると以下のようになります。

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天上天下唯我独尊


これはお釈迦さまの有名な言葉です。すべてが繋がりあって存在するこの世界では、他が存在しなければ自分は存在しません。
だけれども、それを認識するのは「我」なのです。そういう意味では「我」がなければ、無に帰するとも言えます。


ただ我だけを尊ぶ。

だけれどもその「我」は宇宙のすべてを含んでいて、すべてのものに支えらえているのです。

君あり、故に我あり。 君がいるから僕がいる。

それが、お釈迦さまが尊ぶ「我」です。

そして時代は下って・・・



我思う、故に、我あり。(コギト・エルゴ・スム)



私が存在するのは、私が思考しているから。

自分の存在基盤を自分の思考に求めたこのデカルトの言葉は、自我による自然からの独立宣言で、他者の存在なしでも自分は存在出来るという幻想を生み出しました。

自然から独立した自我は、自然をただの物質と捉え、切り刻み利用していきます。それは自我による可能性や欲の追求で、その結果、物質文明は発展しますが、自然環境は限界を迎え、人々は離れ離れとなり、自我は孤独になっていきました。


孤独となった自我は、不足感を持ち、それを埋め合わせよう努力します。不安から必要以上に求めるようにもなります。それは自然から離れた自我の生み出す矛盾です。矛盾した努力は天の法から外れ、人が努力すればするほど社会は混乱していったのです。


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近代以降、自我は「他者の存在なしで自分が存在出来る」という幻想を持つようになりました。そしてそれを基盤にして世界を認識しています。幻想を基盤に世界を認識しているため、すべての認識は自分視点の幻想となっていきます。

自分の側から世界を見て、世界を評価し、世界に働きかける。

そのトキ見える世界は幻想です。幻想が膨らみ一人ひとりの視点に「差」が広がり世界はどんどんバラバラとなり混乱へと至ります。それが現代の多くの人々の認識であり、そんな中、人は幻想に惹かれ、幻想を求め、幻想に奔走され、幻想で苦労しているのです。だからお釈迦様は以下のように語ります。

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悟るということは「差を取る」ということ。何と何の差を取るのかというと、お釈迦様は「自分と宇宙」と言われました。自分というものに目覚めると「自我」が発生します。そして常に自らの解釈がこの世界を図っていくのです。
般若心教では・・・
「色即是空 ……ここでいさどんは般若心教のお経を唱え始めました)」
今、「無」ばかり出てきましたね。これは「ない、ない、ない、ない」と言っているのです。それは、自分という意識を持つとこの世界を自らの秤をもって図るのでこの世界と自分に差ができる、ということです。そして、自らの秤を持たないようになる、つまり図る自分がなくなれば、この世界が「ない、ない、ない・・・」と思えるようになるのです。そしてこの世界が「絶対有」であるという状態になるのです。

そこで、「絶対有」とはどのような「有」かというと、すべてが自分自身である、ということです。自分とこの世界に差がある状態を悟りとは言いませんね。人は自らの解釈に依らない境地になったときに差が取れて、この世界すべてが自分になるのです。
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天上天下唯我独尊と宣言したお釈迦様は自分をなくすことの大切さを語っています。それは自我を持つことで世界を自らの秤で図り世界と自分に差が出来るから。そしてその差が幻想であり世界をバラバラにしていくからです。自我が与えられこの世界を認識出来るようになったことは天が人間に与えた「恵み」です。その「恵み」を最大限に生かし世界の実相を認識するために自分をなくし「絶対有」を目指していくのです。

人は幻想に惹かれ、幻想を求め、幻想に奔走され、幻想で苦労しています。ですが、なかなかその幻想を手放すことが出来ません。それはその幻想がそのトキの自分にとっての「恵み」であり、そこに様々な思いや感情そして記憶がセットになっているからです。恵みと認識についてジイジ(当時はいさどん)は以下のように語っています。

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「恵み」とは生きることそのもの。人間は何かを貰った時やご利益を得た時に「恵み」と考える傾向がありますが、人は生きることにより物事を認識していきます。その認識こそ「恵み」です。先にこの世界があり、自分という個性が組み合わさります。一人一人個性的な眼鏡でこの世界を認識していきます。人間は他の生命とは違い自由が与えられ、自己実現の願望を持ちます。そして広い視野を持ち尊く生きることも出来るし、狭い視野に陥り地獄を生きることも出来るのです。それらすべてが恵みです。



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恵み(めぐみ)

カタカムナで言うと、「見えないところに大きな広がりを持つ芽が自由に満ちている」となりますが、「まわりてめくる=自転公転」の中で公転を意味する「めくる」にも繋がる言葉に思えます。つまりそれは新しいところへと動き続けるということです。

多くの人が今の恵み(認識)に執着するものですが、恵みとは本来いただくものです。それは古いものを手放し常に新しいものと出会っていくということです。なぜなら宇宙の本質は変化変容にあるからです。

だから世界の側から自分を見て、自分を正していくのです。変化変容を繰り返すのがこの世界です。その世界から自分を見ることで、世界に合わせて自分を変化させていくのです。その繰り返しの中で認識を広げ「絶対有」を目指すこと。それが僕の歩む道です。

木の花ファミリーのみんなです。


自分を鍛えて多様な愛を表現していく

Aくんが出発した日の朝、空には虹が掛かっていました。

先日、自然療法プログラム(通称:ケア)で木の花ファミリーに滞在していたAくんが新たな生活へ向けて帰宅しました。Aくんが出発する日の朝は、空に虹が掛かっていて、まるで門出を祝福しているようでした。そのAくんのケア物語が木の花ファミリーブログに掲載されています。以下、その一部を引用したいと思います。

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高校生のAくんが初めて木の花ファミリーを訪れたのは59日、不登校で昼夜逆転の暮らしを改善するためにお父さんと一緒に訪れました。

「規則正しい生活を送ること」を目標にスタートしたAくんのケア滞在は、本人のペースで進められていきました。作業へ出発する時間になっても丁寧に歯ブラシや水筒を洗い続けていたり、出発直前になって行くか行かないかを迷い始めたりして、人を待たせることが度々ありました。それでも最初の1、2週間は日中作業に出続けていたので、2週間面談の際、新たな目標として「コミュニケーションを大切にするように」ということが伝えられました。

2週間面談の場で、Aくんは自己主張を繰り返していました。そんなAくんに対してジイジからは、「今の状態を改善するためには人の話を聴くことが大切です。自分の考えが今の自分をつくったのですから、自分の考えを変え、社会に適応出来るようになっていく必要があります。」と伝えられました。

その後のAくんは休みがちとなり、半日か数時間キッチンで作業をして、あとは部屋で過ごすことが多くなりました。そして人ともあまり交流をしませんでした。日々の生活の中で出来ないことの理由探しをしていたのです。4週間面談では、そんなAくんにジイジから、「だるくなったのは、出来ないことの理由として必要なのかもしれません。」「自分の日記やなかのんがつけているケア記録を読み、そして面談音源を聴くことで客観的に自分を観るようにしていきましょう。そして自分の姿勢を振り返り、姿勢にメスを入れるように。」と伝えられました。しかし、5週間面談の際もAくんは、「病気であるほうが自分にとって都合がよい」と認めながらも、対人恐怖などの症状を訴えている状態でした。

そして6週間面談の際、ジイジからAくんに「いつも行動しない理由探しをしています。積極的にやらないことを求めています。」「このままだとやる気がないという判断になります。やる気がない人は滞在拒否することになります。滞在拒否される前に自分からやるように。このように6週間が経って、毎回同じテーマを出される人はあなたが初めてです。」と伝えられました。

その後も一向に気持ちが入らず、日記には無駄な思考やきれいごとを書いているAくんに対し、ジイジは、「余計なことは考えず無心になって動くだけです。本当は分かっています。」とコメントし、サポーターからは「こんなことをしていたら絶対に改善しません。親御さんにお金を出して貰ってそれを全部無駄にしています。行動しなければ、何を書いても無駄になります。もっとちゃんと考えたら?」と伝えられました。

その翌日からAくんは、毎日朝から作業に出るようになりました。そして7週間面談の際、ジイジからAくんに「その調子で続けて、自分で良いと思える生活を送るようにしましょう。こちらはあなたの取り組みで一喜一憂しています。あなたがしっかりと取り組むことはこちらの喜びとなります。あなたの1日の送り方が周りの人を喜ばせるのですから、自分の存在が人の喜びとなって、自分自身が誇れるようになるといいですね。みんな応援しています。」と伝えられました。

その後、しっかりと規則正しい生活を送り、人とも積極的に会話をするようになったAくん。8週間面談の際は、ケア卒業の見通しが伝えられました。ですが、Aくんの中に臆病な気持ちが芽生え、翌日の日記には、「まだケアを卒業出来るとは思えない。学校にはまだ行こうと思わないし、行く必要を感じない。」とネガティブな気持ちが綴られていました。そのためケア卒業は一度棚上げとなり、9週間面談では、ジイジからAくんに、「とにかくやる気がない。今もまわりからの評価を自分から否定して、自分で成果が上がらないようにしています。これから1週間様子を見ます。もしこの姿勢が変わらないなら滞在拒否をします。そのことを心して生活するようにしてください。日記も前向きな姿勢を表現するようにしましょう。それは嘘を書くということではなく、自分が思うことが前向きであるようにしていくということです。前向きな気持ちになるように自己コントロールし、そしてその姿勢で日記を書くようにすることを心がけましょう。」と伝えられました。

その後1週間、Aくんはネガティブにならないように心掛けて生活をしました。それを受けて、10週間面談では、9月復学の目標が決まりました。Aくんは自分から「9月」と言ったのですが、決まった途端に「やっぱり短すぎる」と言い出しました。そんなAくんにジイジからは、「余計なことを考えすぎないことです。その姿勢が、今までいろいろなことを台無しにしてきたのです。自分の考えで決めずに、自分の考えを超えて人の提案を取り入れるようにしましょう。『でも』、『けど』と言い訳を言わず、定まらない心も捨てて、スタートするようにしましょう。」と伝えられました。そしてこの日の日記にAくんは、「今日の面談を受けて割り切るしかない、決めるしかないと思った。ジイジが言うように、自分は17歳なのだから学校に行ったほうがいいに決まっている。そろそろまわりの意見を聞くときが来た。周りの指示、提案を聞こう。」と書いていました。

その後、ネガティブな感情と向き合い、それに対処する方法を自分から探求するようになったAくん。やり取りもしっかりしてきたことを受けて、731日のケア卒業、その後、9月復学を目指して長期滞在を続けることが決まりました。

11週間面談では、「今の不健康な状態になったことを父親のせいにしていた」と気づきを語るAくん。そんなAくんにジイジから、「出会う出来事は、環境も影響しますが、1番は本人の姿勢の問題です。親も完璧ではありませんし、親との間には意見の違いもあるものです。そういうことを対立や問題ごととして捉えることも出来ますが、それはある意味、困難な状況の中で自分を逞しくしてくれる要素でもあるのです。これからも人生の中ではいろいろなことがあると思いますが、それを生かしポジティブに捉えるように努力することが大切なのです。」と伝えられました。

ネガティブな思いと向き合い、ポジティブに変換することを学び始めたAくん。その歩みが続き、Aくんが幸せになるようみんな応援しています。卒業おめでとうございます。


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僕はAくんのケアサポーターとして身近なところで過ごして来ましたが、彼と共に過ごすことで多くの学びをいただきました。ケア物語にあるように、Aくんはなかなか規則正しい生活を送ることが出来るようにならずやる気も感じられない状態でした。そのような状態で5週間が過ぎた頃、ジイジから僕は以下の投げかけを受けていました。


Aくんのような人は捨ててやらなければならない。
面倒を見るのではなく。捨て切っても駄目だけれども。

具体的に「どうしろ」をいう指示があったわけではなく、ただこの言葉だけが与えられました。その後、上記の言葉を踏まえてAくんを観察し接していましたが、そこで試されたのは自分の人間性だと思っています。

僕はこの言葉を受けるまで、毎朝Aくんの様子を見に行っていたのですが、それを止めました。距離をとって部屋にもあまり戻らなくしたのです。ですが、朝しっかり起きて貰わないと困るタイミングでは見に行ったりしていました。ジイジの言葉を基本としながらも、固定せずに本人の状況や状態を見て関わるようにしました。

どうしているかな・・・とすごく気になり、放っておいたらもっと駄目になるのでは?と思えるところをぐっと堪えて距離を取り続けた時期がありました

心を留めながら捨ててやる

そのような感じで接し続けた結果、Aくんの中からやる気が芽生える瞬間に出会えました。僕はこういう関わり方が出来たことに自分の成長を感じました。例えば3年前の僕がAくんに出会ったら、イライラしてもっと感情的になって取り組みを台無しにしてしまった可能性が大きいのではないかと思っています。

今だから出来た接し方を通してAくんの心を育むと共に自分の心も育んでいきました。

Aくんの滞在が5週間を過ぎた頃、僕は「Aくんがここにいる意味はないのでは?」と感じていました。ですが、自分はそういうことを判断する立場にはないので、ただ役割に徹していました。そんな状態だったAくんが、自分と向き合うようになり、ケアを卒業し、新しいところへと旅立ちました。未来にどんなことが起きるかは分からないものです。

あの頃の自分が見ていた景色ではありえないこと、Aくんがケアを卒業し高校へ復学することが実現しました。だから今見える景色で、未来を断定してはいけないのです。そのことを実感し確認する機会ともなりました。

捨てる(すてる)

カタカムナで見ると、「二面性が極限まで達して維持されている状態」となりますが、捨てるという行為には確かに二面性があるように思えます。何かを捨てることは対象を手放すことでもあり、捨てる対象に自由を与えることでもあります。そこから何が生まれるか分からない、どちらに転ぶか分からない。そんな要素が捨てるという行為にはあります。

捨てる。

そこに心がないと、それはただの冷たい行為となりますが、そこに心があれば、大きな愛の表現ともなりえるのです。

きっと愛の表現は多様で、その源は天へと心を向けることです。自分の反応パターンから自由になれば、きっとどんどん多様な表現が可能となります。天に心を向けることでそんな自分の変化をこれからも楽しんでいこうと思っています。

ところでAくんの卒業コンサートのトキ、ジイジはAくんにこんな言葉を送っています。

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本当の自分の実力というのは、自分の正直な心を出して、その上で返ってきたいろいろな出来事を通し、それをどのように捉え、どのように前向きに進んでいくのかにかかっています。そのときに、本当の実力が出来、社会をたくましく生きていく力になります。これは、ここで決めていることなのではなく、実際に、生きるということはそういうことなのです。誰も、明日の自らの人生を読み解くことは出来ません。明日に出会うことは、今日までに出会ってきた延長にあるとは限らないのです。それが、人生というものです。

そのために、自らの予想を超えた想像の出来ないことが起きたとき、その出来事は新たなことに対する抵抗力を与えてくれていると思えば、とてもありがたいことなのです。なぜなら、それは自分を育ててもらっていることになるからです。そのように物事を前向きに捉えたら、「あれはダメだった」「これはこういう理由でダメなのだ」という言い訳は必要なくなります。そして、どんなに難しいと思われる出来事が起きたとしても、超えられないことは何ひとつありません。そこを一つ一つ取り組んでいくことによって、自分の力が身につき、生きる希望になるのです。それが、この自然療法の取り組みに対する考え方です。


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Aくんは困難に出会いましたが、それを通して自分を鍛え逞しくなっていきました。そして僕らにとってもAくんのケースは困難なケースと言えますが、それを通して僕らは鍛えられました。困難が希望、喜びへと繋がっていったのです。この姿勢こそ人類が育む必要があるものだと感じています。

貧困や格差、戦争や紛争、環境破壊。

今、世界には生きることが困難となる課題が山積みとなっていますが、それらを悲観的に捉え、対立や争い、孤立を生み出すのではなく、自分たちを鍛えてくれる要素として前向きに捉えたら、そこからきっと希望が生まれます。その希望の元に心を一つにしていけたら、みんなが成長し合える豊かな世界が実現するのだと思います。

そんな世界に向けて、これから先どんな困難に出会ってもそこから自分を鍛えて愛を表現していこうと思っています。





不自由の自由が真の平和をもたらす



3年前の終戦記念日、この世界に地球談話が降りてきました。そこには以下のように書かれています。

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「地球談話~真の平和を地球にもたらすには~」2015.8.15

真の平和を地球にもたらすために、今わたしたちにできることは何でしょうか。それは広い世界観を持ち、個々の自我を超越することです。人間が自我の狭い枠に囚われている時、他者との違いによって他者に違和感を持つようになります。それが対立や争いの始まりです。しかし、わたしたちが存在しているこの世界は無限に広大な世界であり、そこは多様ないのちのネットワークで成り立っています。その調和のネットワークは、個を存在させるために全体があり、全体を存在させるために個がある相似形の仕組みによって成り立っているのです。


この世界の真実は、全てが一つということです。ですから、全てのものと自分自身との区別はないのです。このように人々の世界観が広がれば、平和な世界を創り上げようとしなくても、地球上に平和は自ずと訪れるものです。

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この世界に真の平和をもたらすために必要なことは、広い世界観を持ち個々の自我を超越することで、それが出来れば平和は自ずと訪れます。では自我を超えるためにはどうすればいいのでしょうか?日常生活を問題なく穏やかに過ごしていれば、それだけで自我を超えるということが出来るのでしょうか?木の花ファミリーでは先日、ジイジから子どもたちに向かって戦争について語る時間が持たれましたが、そこでは以下のような言葉がありました。

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皆は、学校の勉強をしていますね。学校の勉強をして、将来大きくなって、大きい会社へ入って、そこで良い製品を作って、それがたくさん売れたら、お金をたくさんもらえますね。その会社が爆弾を作る会社だったら、効率良くたくさんの人を殺す爆弾を作ったら、お金をたくさんもらえるのです。

たとえば、食べ物が安全でないものなのに、皆がたくさん食べたがるようなものをたくさん作るとします。そういう食べ物はコンビニなどでたくさん売られていますね。そうすると、安全でなくても、皆がたくさん食べたがるものを作ったら、会社は儲かって、これを作った人たちは給料をたくさんもらえるのです。だから、体に良いものではなくても、人がたくさん欲しがるものを作れば、お金になるのです。そういった食べ物をいつも食べないといられない人も出てきます。これを中毒と言います。そういった中毒の人がたくさん出てくるような食べ物を作れば、会社は儲かりますね。そして、それを考えた人はお金がたくさんもらえますね。お金がたくさんもらえたら、その人は優れた人になります。頭が良い人ですね。

~ 中略 ~


今日は、戦争の話をしようと思ってこの場に臨んだのですが、戦争のほうがわかりやすいですね。人と人が殺し合って大変なことになるのです。普通の人が「私は戦争なんかしていません。悪いことは何もしていません。お巡りさんにも捕まることはありません」と言いながら、他の生き物をたくさん殺したり、それどころか、「おいしいものを作ったから食べてね」と言って、そこには添加物や毒がたくさん入っていて、そういったものを長い間をかけて食べていると、それが原因で病気になって死ぬこともあるのです。癌が発生するのは、食べ物が原因で起こることが多いのですよ。そうしたら、食べ物を作っている人が癌ができる食べ物を作り、結果、人を殺しているのです。それは、誰がやっているのかといえば、頭が良い人です。学校で勉強ができる人です。

だから、皆は一生懸命勉強して、これからはそういった人にならないように、戦争が起きないように、他の生き物に迷惑をかけないように、地球がどんどん変になっていかないように、そしてそれを直していける人になってもらいたいと思うのです。今までの人間は、結果として悪い世の中にするために生きていたのです。


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一生懸命に勉強をして社会の中で成功をして何も問題を起こしていないと思っている人も、今の社会で普通に生きていると、他の生き物に迷惑を掛けて地球を痛めつけているのです。これは今までの社会が人々の自我を満たすために創られてきたからです。努力をするならば、自我の望みが満たされることはよいこととされてきました。だから人々は自分や身近な人々のために働いてきました。ですが、地球談話には以下のように書かれています。

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日本の漢字に「働く」という文字があります。これは「労働」を意味します。しかし、真の意味は「傍(はた・他者)を楽(らく)」にすることです。働くことはある意味生きることですから、生きるとは自分を超えたネットワークの中で役割を果たし、他者のため、世の中のために生きることなのです。ですから、生きることは世界に平和をもたらすことになります。

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傍(はた)を楽(らく)にするために、大いなるネットワークの中で他者のため、世のためにはたらくこと。それが自我を超えた人々の生きる姿です。

はたらく

カタカムナで見ると、トコロ軸に発生したものが分離独立する場所で自由であること。「トコロ軸に発生したものが分離独立する」とはこの世界の一つひとつの生命のことで、それが存在する場とはこの世界そのもの、つまり「はたらく」とはこの世界で自由であることなのだと思います。そして自由とは何か?と聞かれたら、心の道を歩む僕は以下のように答えます。

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この道は言ってみれば、自己否定の旅だと思っています。それはもっと大きな自分、世界と一つになるための自己否定です。常に否定し続け、それが即、肯定へと変容し続けます。それは自分を手放すことが出来ることへの誇りであり、大いなるものへと自分を委ねる覚悟となります。


この道は山登りに例えられます。山のすそ野は広くどこからも登ることが出来ますが、頂上は一つ。登れば登る程、道は限られていきます。同じように、この道は究めれば究める程、道は狭くなり、今まで良かったことも駄目となり、自らの選択はどんどん限られていきます。

不自由の自由。

一見、不自由に見える心の道ですが、それを進むことが本当の自由への道です。

なんでもいいけど道は一つ。

そんな感じです。

多くの人は自分の想いのままに行動することが自由だと思っています。ですが、思い通りにことが運ぶことはほとんどありません。結果、自らの想いに翻弄され、現実の中で右往左往するのです。平和を求めて争ったり、平和のために核武装したり。人々は自らの想いに翻弄され、それが矛盾に満ちた社会を生み出しているのです。


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真の自由とはこの世界の法則、その不自由さを完全に受け入れることです。自我は常に目の前の出来事に反応して、あーしたい、こーしたい、こうでなきゃ、ああでなきゃ、これは嫌だ、あれは嫌だ、と主張します。その反応を超えて、この世界に法則に自分を委ねていくのです。すると自我の反応は変化し流れに沿ったものとなり、みんなと調和したものとなっていきます。それは自分の個性が花開く道であり、それに合わせて出会う出来事も変化していきます。それが自我を超えることであり真の平和へと繋がる実践なのです。






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