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諦めることで明らかにするトキ

秋分の朝の富士山と太陽です(^-^)


最新のジイジのブログではジイジが長年培ってきた「手かざし」の極意について語ってくれています。以下、その一部を引用します。

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手かざしを行なう上で理解すべき最も重要なことは、欲の心を絡めて行なうのではなく、人の内在する可能性を開発するために行なうということです。そういった内なる気付きを得るための機会にしたいものです。とかく人間は、健康になろうなどと、私欲の延長にそういった行為を行なうことにより、それが本来の人としての優れた気付きを得るためのものとは、違うものになってしまうのです。

そのためには、「私は空っぽですから、私をあなたのエネルギーの通り道にしてください」と天を意識することです。「治してあげよう」とか、「良くしよう」という私欲の意識を持って行なうことは禁物です。その場合、そこに自我が入ることにより、発せられるエネルギーはきれいなものとは言えないことになってしまいます。ですから、その発せられるエネルギーには、何も想いが入っていない美しいものとして、エネルギーの通り道を創り、それを圧縮して発しているだけの意識として行なうことが肝要です。



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手かざしを行う際、ジイジは、欲の心を絡めること禁止していますが、それはジイジの一貫した姿勢と言えます。昨年の7月26日、マヤの新年を迎えてジイジ(当時はいさどん)は以下のように語っています。

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私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います


この自然界、そして宇宙の法則は、すべて因果応報の仕組みで成り立っています。原因があって結果がある。そこでは、その原因にふさわしい現象が起きることが約束されているのです。こんなにありがたいことはありません。なぜなら、その者にふさわしい現象が顕れるからです。そして今、この場に立ち会う人々も、なぜここに集うのかというと、それにふさわしい生き方をしてきたからです。今皆さんは、どのくらいの意識を持って今日この場に集っているのか。その今の意識が、皆さん一人ひとりのこれから先の人生に形として顕れていくと同時に、社会を創っていくのです。それは当然のことなのです。

人類はそろそろ、そのことを知らなければなりません。出来事の表面だけを見て、それが不愉快だと言って解決しようとする時代は終わりました。これからどのような時代を生きていくのかは、その者が自らの人生をどのようにしようとしているのか、そこで何を望んでいるのかによって変わっていきます。つまり、生きることが自らの手の中にあるのです。これまで、なぜそれが人々の手の中になかったのかというと、自らの独りよがりで、この世界から与えられている命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからです。



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学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います



ジイジは「欲」について、上記のように述べていますが、「欲」が生まれるには、生まれる「余地」が必要なのだと思います。「欲」と「余地」。両方とも「よ」がつきますが、カタカムナで見ると、「よ」は「4」であり混沌を表す思念です。「よ」(4)は、「い」(5)の方に進めば、「よい」となるのですが、「み」(3)の方に戻ると、「よみ(黄泉)」となり、死の世界に入っていきます。「よ」はどちらにも転がりえる、混沌の中にあります。「よ」がつく言葉を見ると、喜び、良い、淀み、汚れなど両義的なのはその表れであり、それは「世」、人間の世の中そのものと言えます。


「余地」の「ち」は持続を表す思念であり、「余地」とは混沌が持続している状態、どう転がるか分からない何にでもなり得る状態と言えます。そして「欲」の「く」は自由を表す思念であり、混沌のままに自由に動きまわる状態が「欲」と言えます。

自我を与えられた人間は、自分の思考という「余地」を与えられ、そこから「欲」が生まれます。出発点が「自分の思考」なので、欲深い人は物事が思い通りになることを求めます。そしてそれは思い通りにならないことへの苛立ちや不安となり、時には未来への恐怖となって表れます。思い通りにならないことを恐れるのです。ですが、僕たちが出会う出来事は、自分の生きた証であり、相応しい結果です。ということは、苛立ち、不安となり、未来を恐れることは、自分自身に苛立ち、不安となり、自分自身を恐れることを意味します。

変化変容が本質であるこの世界では、未来は常に未知なるものです。そして、それは自分自身にも言えることです。現象を追い求める「欲」の心は、そのような未来や自分を思い通りにしようとします。その結果、未来や自分の現実が見えなくなり、混沌が深まっていくのです。「欲」の心は、混沌のままに動きまわることで、混沌を深めていきます。


気候変動や自然災害、紛争や戦争、貧困や餓死。今の世界には様々な問題がありますが、ただそれを解決しようとしても、それは現象を追い求める「欲」の心であり、混沌を深めるだけとなります。それらの問題を生み出している元の心、人間一人ひとりの姿勢を明らかにし、それを正していくトキ、今ある問題は自ずと消えていくのです。

今日は秋分の日、秋の真ん中です。収穫の秋は、種まきの結果をいただくトキであり、明らかになることで諦めるトキです。自我という「余地」が与えられたことで人間には自ずから「欲」の心が生まれます。それは絶えず続く心の動きです。だから人は、絶えずその心の動きを諦めることで明らかにし、自分と世界の現実と向き合い正していく必要があるのです。その動きが世界に彩りを生み出すと共に調和というバランスをもたらします。

国連総会が開幕しています。国連総会が毎年秋に行われるのは、「欲」の心を明らかにし諦めることの大切さを表しているようにも思えます。

そして、このブログを立ち上げたのも秋分の日、今日で丸4年となりました。秋分の日に立ち上げたのはたまたまですが、今思うと、このブログを通して表現し、自ら実践することも、「欲」の心を明らかにし諦めることにあります。それは最初に意図したこと(木の花の経済について書く)とは全く違うことですが、物事は自らの意図を超えたところで動いていきます。ブログ4年目、「よ」、混沌、「欲」の年を終えてそのことに気づきました。

今、世界は諦めることで明らかにするトキと迎えています。




思考の奥へと行って世界と響き合っていく

2018年1ヶ月間の真学校終了パーティの写真です。

今、1ヶ月間の真学校を受講していた中国医のボーシャンが再び木の花ファミリーを訪れています。そして、昨晩の大人ミーティングで以下のようなシェアをしてくれました。

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何か一つのものを見ようとして集中すればする程、それが見えなくなる。何かを見ようと思ったらもっと引いた意識で全体を眺める姿勢で見る必要がある。だから僕は上でもなく下でもなくまっすぐ前を見て俯瞰して歩き続けようと思っている。

宇宙を生きる

そんなふうに意識するトキ、遠くに想いを馳せていたが、宇宙は遠くではなく目の前に存在している。宇宙はすぐ近くに日常の中にある。


木の花ファミリーの人たちの施術をしていて、そこに結び目があることに気づいた。その結び目がしこりとなっている。木の花の人たちは目の前のことに集中しているが、それが囚われとなって宇宙そのものである今を生きることを難しくしている。今を生きるためには、僕らは目の前のことだけでなくもっと深く物事を見ていく必要がある。

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ちょうどこの日、僕はボーシャンに施術を受けていました。ボーシャンの施術を受けているトキ、ボーシャンのエネルギーが流れてきて、自分は自分の思考を眺めている状態となっていました。リラックスした状態で思考の奥から思考を眺めていました。その思考が普段の自分の枠となり、自分の体験を規定しているのです。純粋に今を生きるためには、そして完全に自由に生きるには、思考の奥で世界を感じてみんなと響き合っていく必要があります。だから僕はそんな感覚を磨いていこう。そんなふうに思っていたので、ボーシャンのシェアにはとても共感出来ました。

そして、ボーシャンの施術を受けた後、僕はらぶちゃんに髪を切って貰いました。らぶちゃんもボーシャンの施術を受けたことがあって髪を切って貰いながらお互いの体験を語り合いました。そのトキ、らぶちゃんはこんなことを語りました。

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ボーシャンの施術を受けたら脱力状態になってそのまま眠ってしまった。そしてたくさん夢の見たのだが、ほとんど忘れてしまった。だけれども一つだけ覚えていて、それはオフィスでなかのんが自殺をした夢。オフィスで首をつって自殺をしていて、だけれどもその姿はとてもきれいだった。きれいだったからはじめは何も思わなかったのだけれども、すぐにはっとして「これって大変なことでは」と思って、大慌てでいろいろな人に連絡したりした。後は覚えていないのだけれども・・・

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髪を切ってもらう機会があったから、らぶちゃんはこんな話を僕に語ったのでしょう。そうでなければ、わざわざ語ったかどうかは分かりません。なんにせよ、この話に出会ったのは面白いと思いました。「諦めることで明らかにする」に書いたように、9月9日は括りの日でした。そして僕はこの機会に自分視点が生み出す世界を締め括りました。それは今までの自分の「死」とも言えるでしょう。トキが生み出す流れに心を開くために、僕は自ら「死」を選んだのです。

カタカムナで「シ」は現象として示されているもの。細胞が新陳代謝を繰り返す僕らの中には「死」は常にあって、「死」を通して新しいものが生み出され、僕らの存在は現象としてこの世界に示されているのです。それは常に変化変容を繰り返し常に新しいところへと進んでいく世界です。

そこに「固定」という幻を生み出すのが思考です。だから僕はその思考を眺め、思考を認めながら、その奥へと行って世界と響き合って今を生きていくのです。

昨日はそんなことを感じた一日でした(^-^)



差が融合され高次へと導かれていく

2018年9月6日の富士山です。

傷と怒りを愛と調和に変換していく」にて、僕は「ある出来事に傷つき怒った」と書きましたが、これは正確な表現ではなくて、僕はある出来事で怒り、その怒りがあまりに大きかったので、その怒りよって自分で自分を傷つけたのです。自分のコントロールを超えた怒りは周りだけではなく自分自身も傷つけます。僕はそんなふうに思っています。

この怒りは自分のコントロールを超えていて、思いもよらないものでした。そのトキの状況を冷静に見れば、それほど怒ることではありません。ですが、自分が怒ったというのが事実です。

思いもよらないことが起きて、それが自分に相応しく与えられて、その種が自分の中にあることを思ったトキ、僕は自分のことを分かっていないのだなぁということを思います。きっと本当の意味で完全に自分のことを分かることはなくて、現象を通して見ていくだけなのだと思いました。

種は時間とともに成長して芽吹き、現象となって表れます。ただその自然の流れを受け入れ、そしてそこから学び、新たな種を撒いていく。生きることはただそれだけなのだと思いました。その繰り返し、循環の中で僕は自然と同じように変化していきます。

僕の怒りは自分にとって思いもよらないもので自分を傷つけましたが、相手との絆を深めるきっかけともなりました。本当に何がどうなるかは分からないものです。

話は変わって。

僕は2年前の9月6日、「自分ごと」から全体性へと至る道というブログを書いています。このブログは僕にとって一つの到達点となっているのですが、そこでは以下のように表現しています。

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僕はずっと意識の関心が自分に向いていることが「自分ごと」だと思っていましたが、この認識は正確ではありませんでした。

この世界で自分を最大限に生かすために、自分を正確に知っていく。

そんなふうに自分に関心を向けるならば、それは「自分ごと」ではなく、世界のことであり全体性へと至る行動となるのです。その一方、途上国の支援など社会貢献と言われる活動をしていたとしても、それが自分都合になってしまっていたら、その活動は「自分ごと」なのです。

活動の動機をしっかりと観ることが大切です。

例えば、ODA(政府開発援助)ですが、本来、途上国のための援助のはずが、日本企業の利益に繋がり、途上国に累積債務と環境破壊をもたらす事例もあります(※Wikipedia「日本のODAの問題点」参照)。このような活動は決して全体のことを思った行動とは言えません。社会貢献活動を利用して日本は「自分ごと」で動いていたのです。しかも日本全体ではなく、一握りの人の利益のためであり、極めて「自分ごと」と言えます。

 ~ 中略 ~


今、この世界は「自分ごと」の集まりで動いているのです。

宇宙の法の下では、自他の区別を超えてすべてが繋がり生かしあっています。それから外れた「想い」や「行動」はすべて「自分ごと」なのです。世界のことを考えていても、社会貢献をしていても、「自分が」という想いに基づいていたら、それはやはり「自分ごと」となります。そして、「自分ごと」の想いや行動は、たとえそれが実現したとしても、この世界に偏りを生み出し、いずれ対立や格差、喪失などの滞りとなって現れるのです。

だから「自分ごと」を超えていくことが大切です。

自我が与えられた人間は、当然のように「自分ごと」の願いや想いを持ちます。そして、それは意欲にも繋がるものです。だから、それらを追い求めることは大切なことではあるのです。ただ、その際、宇宙の法を意識する必要があるのです。宇宙の法とは天の流れあり、それは時代が生み出しています。

自らの希望を追い求めながらも、天の流れを感じ、結果をいただき学んでいく。

そんな姿勢でいると、自分が高まり、自然と全体性へと至るのです。それは自分と向き合う旅であり、その旅は果てしない冒険であり、新しい発見は尽きません。新しい発見により自分がどこまでも果てしなく広がっていくのです。


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当時の僕は「自分の希望を追い求める」と書いていました。それは「自分の意図を持つ」ということであり、自分の意図を通して天と対話していこうと思っていました。今の僕は「意図を手放していこう」と思っています。意図を手放して、意図していないことを通して天の想いを知っていこうと思っています。

意図は糸。つなぎ合わせるものです。「イト」をカタカムナで見ると、「位置が統合する」となりますが、「位置(イチ)」の持っているエネルギーには「(差)サ」があります。位置の持つエネルギーの差が統合(融合)され高次へと導かれていく。そんな役割をするのが、「イト」なのだと思います。

意図が本来の役割、差を融合し高次へと導くエネルギーを発揮するには、他に対して開かれている必要があります。だから僕は意図を手放し他へと解き放っていきます。そして意図していないことの奥に大いなるものの意図を感じて、それと融合していくのです。

そのトキ、表現される世界はきっと、善なる愛なる調和の世界です。

傷と怒りを愛と調和に変換していく

木の花ファミリーでは今、木の花ファミリー憲章の改定に向けて検討を行っています。今、世界観概要についてはほぼ改定案が出来上がっていますが、今まで世界観概要に記載されていた以下の文章は、世界観・心磨きという項目を作成し、そこに使おうということになっています。

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「想い」はあらゆる価値判断を超えた善意と愛、そして調和から成ります。これは自然界から教えてもらえる事実です。自然界では、お互いの存在が生かしあっています。これは利他の精神の顕れです。善意により繋がり、愛が生まれ、愛により絆が生まれ、調和をもたらしているのです。悪、醜、偽、欲、貧など、この世でマイナスの価値を与えられている事柄も、すべてはこの「想い」、善意と愛と調和から生まれています。「想い」に立ち返れば、すべてはひとつなのです。

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人間は一人ひとり「想い」を持って暮らしていますが、その「想い」は、人間の自我、「自分」を優先し、他から区別する心から生まれています。自他の区別から生まれた一人ひとり「想い」がこの世界で響き合い、様々な現象を生み出しているのです。ですが、すべての「想い」は元々一つであり、元に立ち返れば、あらゆる価値判断を超えた善意と愛、そして調和へと至るのです。昨晩の大人ミーティングでジイジは上記の文章に触れて以下のように語りました。

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これは壮大なことを語っているように感じるかもしれませんが、日常のことを語っています。普段の些細な出来事をこのような意識で振り返ることが大切です。そして、被害者のように感じる出来事に出会った際も、そういう出来事に出会う因縁があるということです。そういうことを認識すれば、すべて善意と愛と調和の表れで、いつでも謙虚に生きることが出来ます。

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元の「想い」は一つ。そこから今の因縁を生み出している自分に想いを馳せれば、すべての出来事の背後に善意を感じることが出来ます。すると他者と繋がり愛が生まれ、調和を表現することが出来るのです。日常どれだけそのことを意識出来るか、それが肝心なのだと思いました。

別のところでジイジは以下のようにも語っています。

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生きるとは、自らの魂が生み出す「思い」を表現することです。思いは、それぞれの響きを持っています。私たちが生きて、思いを表現すると、その思いの響きがこの世界の何かしらに当たり、ふさわしい現象となって自らに返ってきます。自分がどのような響きを発するかによって、世界はその響きに正しく応え、ふさわしい出来事を与えてくれるのです。そうすると、人生で出会うすべての出来事は、自分自身を観ていると言えます。つまり、この世界は鏡なのです。

~ 中略 ~

生まれてきて、生きることは、命の仕組みです。それは宇宙の法則の中にあります。人生を生きるといろいろなことに出会いますが、その出会いは、自らの魂が何を発したかによって、それにふさわしい出来事が返ってきたということです。返ってきたものを見て、私たちは自分自身を知るのです。

その時に、返ってきたものを見て、これは私のものじゃない、誰か他の人のせいだ、世の中のせいだ、運が悪かったんだ、という人がいます。それでは、自分に都合の良いものが返ってくるように、お金で買いますか?そんなことはできませんね。それは、返ってきたものを自分のものとして受け取らないということです。


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先日、僕はある出来事に出会い傷つき怒るということがありましたが、それは自分が発した「想い」の響きが生み出したものであり、相応しく与えられたものです。そして、傷つき怒ったのは、自分の認識が、自他を区別した「自分視点」になっていて、元の「想い」へと至っていないからです。元の「想い」へと心を向ければ、そこに善意が見えてきます。そして、そこから学ぶことで他者に対する愛が生まれ、調和を表現できるのです。それは絶え間なく続けていく心磨きの道です。例えば、一瞬「善意」が垣間見られたとしても次の瞬間には「自分視点」に戻っていく。それは自我を持つ人間の特徴です。だからそのことを忘れずに元の「想い」へと意識を向け続けるのです。そうすれば、自分の「想い」に翻弄され、傷つき怒ることがだんだんなくなっていくでしょう。

僕の傷つきと怒りは「自分視点」が生み出したものであり、僕の未熟を表していますが、その背後に「想い」を馳せれば、種が見えて、そこに善意を感じることが出来ます。そこから見えてものを心に留めて学びを深めることで、傷と怒りを愛と調和へと変換していこうと思っています。

木の花ファミリーのみんな@稲刈り神事です。


自分を鍛えて多様な愛を表現していく

Aくんが出発した日の朝、空には虹が掛かっていました。

先日、自然療法プログラム(通称:ケア)で木の花ファミリーに滞在していたAくんが新たな生活へ向けて帰宅しました。Aくんが出発する日の朝は、空に虹が掛かっていて、まるで門出を祝福しているようでした。そのAくんのケア物語が木の花ファミリーブログに掲載されています。以下、その一部を引用したいと思います。

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高校生のAくんが初めて木の花ファミリーを訪れたのは59日、不登校で昼夜逆転の暮らしを改善するためにお父さんと一緒に訪れました。

「規則正しい生活を送ること」を目標にスタートしたAくんのケア滞在は、本人のペースで進められていきました。作業へ出発する時間になっても丁寧に歯ブラシや水筒を洗い続けていたり、出発直前になって行くか行かないかを迷い始めたりして、人を待たせることが度々ありました。それでも最初の1、2週間は日中作業に出続けていたので、2週間面談の際、新たな目標として「コミュニケーションを大切にするように」ということが伝えられました。

2週間面談の場で、Aくんは自己主張を繰り返していました。そんなAくんに対してジイジからは、「今の状態を改善するためには人の話を聴くことが大切です。自分の考えが今の自分をつくったのですから、自分の考えを変え、社会に適応出来るようになっていく必要があります。」と伝えられました。

その後のAくんは休みがちとなり、半日か数時間キッチンで作業をして、あとは部屋で過ごすことが多くなりました。そして人ともあまり交流をしませんでした。日々の生活の中で出来ないことの理由探しをしていたのです。4週間面談では、そんなAくんにジイジから、「だるくなったのは、出来ないことの理由として必要なのかもしれません。」「自分の日記やなかのんがつけているケア記録を読み、そして面談音源を聴くことで客観的に自分を観るようにしていきましょう。そして自分の姿勢を振り返り、姿勢にメスを入れるように。」と伝えられました。しかし、5週間面談の際もAくんは、「病気であるほうが自分にとって都合がよい」と認めながらも、対人恐怖などの症状を訴えている状態でした。

そして6週間面談の際、ジイジからAくんに「いつも行動しない理由探しをしています。積極的にやらないことを求めています。」「このままだとやる気がないという判断になります。やる気がない人は滞在拒否することになります。滞在拒否される前に自分からやるように。このように6週間が経って、毎回同じテーマを出される人はあなたが初めてです。」と伝えられました。

その後も一向に気持ちが入らず、日記には無駄な思考やきれいごとを書いているAくんに対し、ジイジは、「余計なことは考えず無心になって動くだけです。本当は分かっています。」とコメントし、サポーターからは「こんなことをしていたら絶対に改善しません。親御さんにお金を出して貰ってそれを全部無駄にしています。行動しなければ、何を書いても無駄になります。もっとちゃんと考えたら?」と伝えられました。

その翌日からAくんは、毎日朝から作業に出るようになりました。そして7週間面談の際、ジイジからAくんに「その調子で続けて、自分で良いと思える生活を送るようにしましょう。こちらはあなたの取り組みで一喜一憂しています。あなたがしっかりと取り組むことはこちらの喜びとなります。あなたの1日の送り方が周りの人を喜ばせるのですから、自分の存在が人の喜びとなって、自分自身が誇れるようになるといいですね。みんな応援しています。」と伝えられました。

その後、しっかりと規則正しい生活を送り、人とも積極的に会話をするようになったAくん。8週間面談の際は、ケア卒業の見通しが伝えられました。ですが、Aくんの中に臆病な気持ちが芽生え、翌日の日記には、「まだケアを卒業出来るとは思えない。学校にはまだ行こうと思わないし、行く必要を感じない。」とネガティブな気持ちが綴られていました。そのためケア卒業は一度棚上げとなり、9週間面談では、ジイジからAくんに、「とにかくやる気がない。今もまわりからの評価を自分から否定して、自分で成果が上がらないようにしています。これから1週間様子を見ます。もしこの姿勢が変わらないなら滞在拒否をします。そのことを心して生活するようにしてください。日記も前向きな姿勢を表現するようにしましょう。それは嘘を書くということではなく、自分が思うことが前向きであるようにしていくということです。前向きな気持ちになるように自己コントロールし、そしてその姿勢で日記を書くようにすることを心がけましょう。」と伝えられました。

その後1週間、Aくんはネガティブにならないように心掛けて生活をしました。それを受けて、10週間面談では、9月復学の目標が決まりました。Aくんは自分から「9月」と言ったのですが、決まった途端に「やっぱり短すぎる」と言い出しました。そんなAくんにジイジからは、「余計なことを考えすぎないことです。その姿勢が、今までいろいろなことを台無しにしてきたのです。自分の考えで決めずに、自分の考えを超えて人の提案を取り入れるようにしましょう。『でも』、『けど』と言い訳を言わず、定まらない心も捨てて、スタートするようにしましょう。」と伝えられました。そしてこの日の日記にAくんは、「今日の面談を受けて割り切るしかない、決めるしかないと思った。ジイジが言うように、自分は17歳なのだから学校に行ったほうがいいに決まっている。そろそろまわりの意見を聞くときが来た。周りの指示、提案を聞こう。」と書いていました。

その後、ネガティブな感情と向き合い、それに対処する方法を自分から探求するようになったAくん。やり取りもしっかりしてきたことを受けて、731日のケア卒業、その後、9月復学を目指して長期滞在を続けることが決まりました。

11週間面談では、「今の不健康な状態になったことを父親のせいにしていた」と気づきを語るAくん。そんなAくんにジイジから、「出会う出来事は、環境も影響しますが、1番は本人の姿勢の問題です。親も完璧ではありませんし、親との間には意見の違いもあるものです。そういうことを対立や問題ごととして捉えることも出来ますが、それはある意味、困難な状況の中で自分を逞しくしてくれる要素でもあるのです。これからも人生の中ではいろいろなことがあると思いますが、それを生かしポジティブに捉えるように努力することが大切なのです。」と伝えられました。

ネガティブな思いと向き合い、ポジティブに変換することを学び始めたAくん。その歩みが続き、Aくんが幸せになるようみんな応援しています。卒業おめでとうございます。


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僕はAくんのケアサポーターとして身近なところで過ごして来ましたが、彼と共に過ごすことで多くの学びをいただきました。ケア物語にあるように、Aくんはなかなか規則正しい生活を送ることが出来るようにならずやる気も感じられない状態でした。そのような状態で5週間が過ぎた頃、ジイジから僕は以下の投げかけを受けていました。


Aくんのような人は捨ててやらなければならない。
面倒を見るのではなく。捨て切っても駄目だけれども。

具体的に「どうしろ」をいう指示があったわけではなく、ただこの言葉だけが与えられました。その後、上記の言葉を踏まえてAくんを観察し接していましたが、そこで試されたのは自分の人間性だと思っています。

僕はこの言葉を受けるまで、毎朝Aくんの様子を見に行っていたのですが、それを止めました。距離をとって部屋にもあまり戻らなくしたのです。ですが、朝しっかり起きて貰わないと困るタイミングでは見に行ったりしていました。ジイジの言葉を基本としながらも、固定せずに本人の状況や状態を見て関わるようにしました。

どうしているかな・・・とすごく気になり、放っておいたらもっと駄目になるのでは?と思えるところをぐっと堪えて距離を取り続けた時期がありました

心を留めながら捨ててやる

そのような感じで接し続けた結果、Aくんの中からやる気が芽生える瞬間に出会えました。僕はこういう関わり方が出来たことに自分の成長を感じました。例えば3年前の僕がAくんに出会ったら、イライラしてもっと感情的になって取り組みを台無しにしてしまった可能性が大きいのではないかと思っています。

今だから出来た接し方を通してAくんの心を育むと共に自分の心も育んでいきました。

Aくんの滞在が5週間を過ぎた頃、僕は「Aくんがここにいる意味はないのでは?」と感じていました。ですが、自分はそういうことを判断する立場にはないので、ただ役割に徹していました。そんな状態だったAくんが、自分と向き合うようになり、ケアを卒業し、新しいところへと旅立ちました。未来にどんなことが起きるかは分からないものです。

あの頃の自分が見ていた景色ではありえないこと、Aくんがケアを卒業し高校へ復学することが実現しました。だから今見える景色で、未来を断定してはいけないのです。そのことを実感し確認する機会ともなりました。

捨てる(すてる)

カタカムナで見ると、「二面性が極限まで達して維持されている状態」となりますが、捨てるという行為には確かに二面性があるように思えます。何かを捨てることは対象を手放すことでもあり、捨てる対象に自由を与えることでもあります。そこから何が生まれるか分からない、どちらに転ぶか分からない。そんな要素が捨てるという行為にはあります。

捨てる。

そこに心がないと、それはただの冷たい行為となりますが、そこに心があれば、大きな愛の表現ともなりえるのです。

きっと愛の表現は多様で、その源は天へと心を向けることです。自分の反応パターンから自由になれば、きっとどんどん多様な表現が可能となります。天に心を向けることでそんな自分の変化をこれからも楽しんでいこうと思っています。

ところでAくんの卒業コンサートのトキ、ジイジはAくんにこんな言葉を送っています。

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本当の自分の実力というのは、自分の正直な心を出して、その上で返ってきたいろいろな出来事を通し、それをどのように捉え、どのように前向きに進んでいくのかにかかっています。そのときに、本当の実力が出来、社会をたくましく生きていく力になります。これは、ここで決めていることなのではなく、実際に、生きるということはそういうことなのです。誰も、明日の自らの人生を読み解くことは出来ません。明日に出会うことは、今日までに出会ってきた延長にあるとは限らないのです。それが、人生というものです。

そのために、自らの予想を超えた想像の出来ないことが起きたとき、その出来事は新たなことに対する抵抗力を与えてくれていると思えば、とてもありがたいことなのです。なぜなら、それは自分を育ててもらっていることになるからです。そのように物事を前向きに捉えたら、「あれはダメだった」「これはこういう理由でダメなのだ」という言い訳は必要なくなります。そして、どんなに難しいと思われる出来事が起きたとしても、超えられないことは何ひとつありません。そこを一つ一つ取り組んでいくことによって、自分の力が身につき、生きる希望になるのです。それが、この自然療法の取り組みに対する考え方です。


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Aくんは困難に出会いましたが、それを通して自分を鍛え逞しくなっていきました。そして僕らにとってもAくんのケースは困難なケースと言えますが、それを通して僕らは鍛えられました。困難が希望、喜びへと繋がっていったのです。この姿勢こそ人類が育む必要があるものだと感じています。

貧困や格差、戦争や紛争、環境破壊。

今、世界には生きることが困難となる課題が山積みとなっていますが、それらを悲観的に捉え、対立や争い、孤立を生み出すのではなく、自分たちを鍛えてくれる要素として前向きに捉えたら、そこからきっと希望が生まれます。その希望の元に心を一つにしていけたら、みんなが成長し合える豊かな世界が実現するのだと思います。

そんな世界に向けて、これから先どんな困難に出会ってもそこから自分を鍛えて愛を表現していこうと思っています。





五感や情動に「命=ミコト」を吹き込む

この夏、韓国の子どもたちが木の花ファミリーを訪れました。

8月を迎えて、木の花ファミリーではジイジから子どもたちに戦争について話をする時間が持たれました。以下のその一部を引用します。

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皆は、学校の勉強をしていますね。学校の勉強をして、将来大きくなって、大きい会社へ入って、そこで良い製品を作って、それがたくさん売れたら、お金をたくさんもらえますね。その会社が爆弾を作る会社だったら、効率良くたくさんの人を殺す爆弾を作ったら、お金をたくさんもらえるのです。

たとえば、食べ物が安全でないものなのに、皆がたくさん食べたがるようなものをたくさん作るとします。そういう食べ物はコンビニなどでたくさん売られていますね。そうすると、安全でなくても、皆がたくさん食べたがるものを作ったら、会社は儲かって、これを作った人たちは給料をたくさんもらえるのです。だから、体に良いものではなくても、人がたくさん欲しがるものを作れば、お金になるのです。そういった食べ物をいつも食べないといられない人も出てきます。これを中毒と言います。そういった中毒の人がたくさん出てくるような食べ物を作れば、会社は儲かりますね。そして、それを考えた人はお金がたくさんもらえますね。お金がたくさんもらえたら、その人は優れた人になります。頭が良い人ですね。

~ 中略 ~


今日は、戦争の話をしようと思ってこの場に臨んだのですが、戦争のほうがわかりやすいですね。人と人が殺し合って大変なことになるのです。普通の人が「私は戦争なんかしていません。悪いことは何もしていません。お巡りさんにも捕まることはありません」と言いながら、他の生き物をたくさん殺したり、それどころか、「おいしいものを作ったから食べてね」と言って、そこには添加物や毒がたくさん入っていて、そういったものを長い間をかけて食べていると、それが原因で病気になって死ぬこともあるのです。癌が発生するのは、食べ物が原因で起こることが多いのですよ。そうしたら、食べ物を作っている人が癌ができる食べ物を作り、結果、人を殺しているのです。それは、誰がやっているのかといえば、頭が良い人です。学校で勉強ができる人です。


だから、皆は一生懸命勉強して、これからはそういった人にならないように、戦争が起きないように、他の生き物に迷惑をかけないように、地球がどんどん変になっていかないように、そしてそれを直していける人になってもらいたいと思うのです。今までの人間は、結果として悪い世の中にするために生きていたのです。


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ここで話は変わって。

2005年の夏、僕はハワイ島の小田まゆみさんのところで1週間ぐらい過ごしました。そのトキ、自分自身と向き合うツールとしてDakiniカードを紹介され、僕は毎日1枚ずつ引いていました。

「自分の女性性と向き合う」

ハワイ島ではそんなことをテーマに過ごしていたのですが、その中で 48 White Lady / Mother of Pearl というカードを引いたことがとても印象に残っています。

このカードでは、顔の見えない女性が真珠を振りまいているのですが、「顔が見えない」というのは「顔を見せない」ということでもあり、彼女は隠れた状態、行為に責任を持たず、言い逃れが出来る状態を保っています。その状態で真珠を振りまいて人を惹きつけているのです。

最近、このカードをあらためて思い出しました。そして以下のようなことを思いました。

五感や情動に囚われ、五感や情動を求めると、それは欲となっていきます。食欲だったり、性欲だったり。そしてそれは時に過剰になることがあります。だけれども五感や情動の奥、ヒトとしての本質に目覚めれば、すべての行為は生きるための営みとなります。そしてそれは「命=ミコト」としての神聖な表現となっていきます。五感や情動から自由になることで、そこに「命=ミコト」を吹き込むことが出来ます。

カタカムナで見ると、「欲(よく)」とはよこしまや混沌が自由になっている状態です。そして、「命(みこと)」とは満ちて転がり出て統合したものです。

White Ladyが振りまく真珠は人の五感を刺激するものですが、彼女は顔を見せることがありません。それは魂、心の欠落した行為であるため、五感の満足だけがすべてとなり悪くすると五感の虜となっていきます。それは今の広告や宣伝で溢れる消費社会、頭の良い人がお金儲けをしている社会の姿と重なります。そこには欲、よこしまが渦巻いていますが、「命=ミコト」、満ちて転がり出て統合するものが欠けています。「命=ミコト」は常にこの世界を循環しています。みことの「と」、統合(10)は1+0=1で新たな始まりでもあります。新しいものに向かって転がり出る。それが統合で生きとし生けるものの循環を意味しているのです。

「命=ミコト」との繋がりを失った五感や情動はただの欲となり、それは他との繫がりを失い自分本位のものとなっていきます。この状態では一生懸命に努力をしても結果として悪い世の中を生み出すことになるのです。現代の消費社会は、人間をそのような状態へと絶えず誘惑していますが、それは戦争を生み出す心にもなりえます。

顔が見えない女性。それは女性性の封印を表しているのかもしれません。物質主義、効率主義、そして社会的成功を求める男性社会の中で、真の女性性は蔑ろにされ、その個性が封印され顔がなくなっていったのかもしれません。女性が持つ本質は蔑ろにされ、五感や情動の対象となっていく。White Lady はそんな女性性の状況を表現しているのかもしれません。

真の女性性とは

『天の愛を受けとる在り方であり、天に導かれながら生きていくということ。』

滝沢泰平さんはそのように述べていますが、そんな女性性の本質をすべての人々が取り戻すことが今求められています。真の女性性に目覚めたトキ、きっとWhite Ladyの顔が表れます。そのトキはきっと真珠を振りまく必要はなくなっているのではないかと思います。

凛とした美しさ。

天の愛を受け取り、天に導かれて生きるトキ、きっとそんな魂の美しさが表現されます。そのトキ、五感や情動は、「命=ミコト」の神聖なる表現となり、生きとし生けるものの大いなる循環の中に包まれ、善意と愛と調和に満ちた世界の表現となっていくことでしょう。

そのために僕は、自分の五感や情動から自由になります。


魂の改定としての断食

8月11日18時58分、獅子座新月でした。1週間ぐらい前、この新月に合わせて断食をしようかなという思いが湧いて来ました。2014年に気候変動問題解決に向けて、月に一度の断食の誘いを受けたことがありしばらく実践していました。最近の異常気象の中、そのことを思い出していました。

ですが、実行するかどうかは保留にしていたのですが、先日、木の花ファミリー憲章を改定しようという話が浮上しました。憲章はこのコミュニティで最も大切にしている精神を明文化してもので魂とも言える存在です。憲章を改定するということは魂を改定するということです。

魂の改定。

ならば、それに相応しい準備をする必要があるということで8月10日から断食を始め、そして14日の朝に終了しました。4日間の断食を行ったことになります。

断食については以下のような効果が言われています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

普段、私たちが食べたものは腸で吸収され、エネルギー源のブドウ糖となって全身に運ばれます。ブドウ糖は、何も食べないと通常8時間ほどで、全てなくなると言われています。


つまり、断食とはエネルギー源がゼロになる生命の危機なのです。
カラダがそのような状態になると、中性脂肪が肝臓に集まってきます。肝臓で脂肪が分解されてできるのが「ケトン体」です。このケトン体は新たなエネルギー源としてカラダのさまざまなところで働くことが分かってきました。さらにケトン体は、もう一つ重要な働きをしていることで世界中の研究者に注目されています。
「ふつう、われわれはエネルギー源としてブドウ糖を使います。しかし、それがなくなってしまうと脳が働かなくなるので、その代替エネルギーが脂肪から作るケトン体です。
ケトン体は、酸素をそんなに使わずに非常にエネルギー価が高いので、お手頃なエネルギー源になる。今、注目されている物質です。

断食をすることにより、ケトン体という脳内物質が増加します。ケトン体が増加すると、α波が出て、心身をリラックスさせる効果があり、さらに、普段以上に頭や五感も鋭くなり、冴えてくるといわれております。


☆彡 ☆彡 ☆彡

ですが今回の僕の場合、断食期間中は身体が重くだるい状態が続き、いつもと同じように散歩をしたことで筋肉痛となり、眠く頭もあまり冴えずエネルギーがない状態が続いていました。それでこれ以上続けると日常業務の妨げとなると判断し中止しました。

断食の効果として脂肪を分解して作られる「ケトン体」ということが言われていますが、今の僕には燃やす脂肪があまりないのではないかということを思ったりしました。

世の中にはプラーナを食べて生きているという不食の人もいるようですが、いきなりそんな身体になれるわけもなく、今回はこういう結果をいただきました。

今回の断食のメッセージとしては、自分は命という食に生かされているということです。すべての食べ物は命です。その命をいただくことがなければ、自分の活動もままならなくなります。僕は生きとし生けるものの循環に支えられて生きています。だから僕自身の命やエネルギーも循環の中で生かされていくべきものです。変化変容を本質とするこの世界の中で、今に囚われずに。

冒頭で取り上げたように、今、世界中で異常気象が続いています。それは生きとし生けるものの循環に滞りがあるから起きているのだと思います。無駄に消費され生かされずに残っていくごみが空気や海の中には溢れています。循環の異常が気候の異常として表現されているのだと思います。

今日、8月15日は日本では終戦記念日です。戦争こそ無駄な争いによって尊い命を犠牲にしてきた行いと言えますが、循環を意識していたら、生きとし生けるものに生かされていることを実感していたら、何かを攻撃しようという心は生まれないと思います。なぜなら、それは巡り巡って自分を攻撃することになるからです。

魂の改定へ向けての断食は僕に苦しみをもたらしました。それは生きとし生けるものの中で循環することの豊かさへと繋がる苦しみです。

例えば、キッチンスタッフの玲ちゃんは断食明けの僕にこう語りました。

「なかのんが断食中は(なかのんの好きな)かぼちゃは料理に使わないようにしようねってみんなで話していたんだ。今後かぼちゃ料理を出すからね」

そして、昨日の夕食の味噌汁にはかぼちゃが入っていました。まだまともに食事が出来ない僕にとって最も嬉しいプレゼントでした。

こんなふうに、僕の断食はみんなの心に響き、そしてみんなの心が僕に響き・・・こんなふうに循環していきます。

僕の魂は僕自身で完結するものでなく循環の中でこの宇宙のすべてと繋がっていきます。それは木の花ファミリー憲章も同様で、憲章は木の花ファミリーで完結するものではなく、この宇宙の仕組みの中で宇宙全体へと繋がっていくものです。

木の花ファミリー憲章改定を前にしてそんなことを再確認しました。

断食4日目の朝、みんなと落花生収穫をしていました。

太陽の光の下、惑いを学びに変えていく

今、天体を見ると、7月26日から水星が逆行していますが、水星逆行について今日は「時間をはずした日」、そして逆行ラッシュの夏休みには以下のように書かれています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

水星逆行とは、太陽系の中で一番太陽にも近い水星が地球から見て逆方向に進むように見える目の錯覚の天体現象であり、1年に3回〜4回ほどの頻度で1度に3週間ほど続きます。

西洋占星術の考え方で水星が象徴しているのは、コミュニケーション・通信・連絡 ・知識や知性 ・技術、テクノロジー ・旅行 ・輸送などであり、これらの分野やキーワードが水星逆行中は、大きく乱れたり、上手くいかなかったりする現象が起こりやすいと言われています。


さて、今回の水星逆行は、またいつもよりも逆行っぷりが半端ではないかもしれません。

というのも、水星だけでなく、すでに火星、土星、海王星、冥王星が逆行しており、88日の88ライオンゲートの日からは、さらに天王星も加わって、819日の水星逆行が終了するまでに6つの星が逆行することになるそうです。

夏休み真っ只中、いつも以上にコミュニケーションのすれ違いに注意し、また遠出される時などは、交通機関の乱れも含め、旅行の計画には十分に注意くださいませ。

明日からの3週間は、サイドブレーキをひきながらアクセルを踏むような時期。

時には無理して前に進まず、立ち止まって一息ついたり、身の回りや自分自身を見つめ直すのも良いと思います。


☆彡 ☆彡 ☆彡

コミュニケーションのすれ違いを生み出す水星逆行、それに加えて火星、土星、海王星、冥王星が逆行し、昨日、8月8日からはさらに天王星が加わり6つの惑星が逆行していますが、この天王星の動きは特に大きな意味があります。なぜなら天王星は今年の5月16日に牡羊座から牡牛座に移動したばかりだからです。天王星はしばらく逆行し11月7日に一度牡羊座に戻ります。そして来年の1月7日に順行に転じて3月6日に再び牡牛座に戻ってきます。牡牛座は12星座の始まり。天王星のこの動きは始まりの再確認を意味するように思えました。

ちなみにこの惑星の逆行という現象ですが、天下泰平ブログに書かれている通り、地球視点から生まれる目の錯覚であり、視点を太陽系の中心、太陽へともっていけば、すべての惑星は常に順行しているのです。

地球視点とはつまり自分視点。自分からの視点で世界を眺めると、逆行のようにこの世界には多くの惑わすものがあります。それらはすべて自分に相応しく出会うものであり、それらを通して学びを深めていくのですが、その奥を貫く太陽の視点をいつも意識していると学びの奥行は無限に広がっていきます。そして、太陽はすべてを生み出す始まりでもあります。それで今、思い出したのが2年前のジイジ(当時はいさどん)が語った以下の言葉です。

☆彡 ☆彡 ☆彡


みんな自分が世直しを託されているとは思っていません。
だけれども、みんな間違えなくこの宇宙の法則の中で生きていて、
人類の70億分の1、この世界を託されているのです。

人は育っていく過程で欲求し、欲求を満たしながら成長していきます。
健全な秩序の中で欲求を満たしていく人もいれば、
秩序なく際限なく欲求を満たし求め続ける人もいます。
そういう経験の中で自分という人間性が出来てきます。

その中で、それぞれが自分の成り立ちを振り返って見ると、
それが宇宙の歴史や地球の成り立ちと一緒だということが見えてきます。
この世界は全部相似形なのです。

小さなところの集合が大きなところを創りだし、
大きなところの法則が小さなところに指針を与えています。

13,000年前のカタカムナの時代。
厳しい自然の中、人類は天然の法則を感知してすり抜けてきました。
ですが、その感覚は時代と共に失われてきました。
その叡智が天とつながることで現代に蘇るのです。

カタカムナの生き方を現代に表現していく。
それは、科学が発展したところに天然の精神を加えることです。
これはまさに新しい時代の生き方で、
木の花ファミリーはそれを表現していくのです。

2012年12月21日。太陽系は銀河の冬至を迎えました。
これからは少しずつ明るくなっていきます。
宇宙的には明るくなる現象が起きて、人間を後押しするのです。

健康に生きることは素晴らしいことです。
ですが、ただ健康になりたいだけで終わってしまったら人生は深まりません。
生きている過程でいただく病気や滞り。
その奥にあるメッセージを理解していくことが大切です。
そこを理解した時に現代人も天然の意識で生きていくことが出来ます。

この世界は心と肉体(物質)で出来ています。
まずは心、魂を磨くことが大切です。物質のことは考えなくてもいいのです。
今の世の中はまだ物質的豊かさを求めていますが、そういう世の中はひっくり返ります。

そのようなターニングポイントを今、迎えているのです。

人間の欲が戦争を生み出し、第二次世界大戦で大きな犠牲を出しました。
これは世の中の欲の心が壊れて一度リセットされた状態です。
ですが、戦後の復興は、もう一度、欲の心でなされました
そして、現代の混乱に至っています。

自分の健全、健康を求める心の奥にメッセージがあり、
それを通して自分がどう生きるべきかが見えてきます。
大切なのは、自分が健康に生きることだけではないのです。
自分のことばかり考えることで人間は不健康になっていったのです。
そのからくりを見通すこと。その先に世の中作りがあるのです。

世の中を良くするとみんなが良くなっていくのです。
自分が・・・と考えると住みにくい世の中になっていきます。
自分が・・・という心を超えていく。
それが天と共に生きることです。

~ 中略 ~

ここで健全な場を創り出すことが時代の流れをあらわすことになります。
世界のことを思い、自分を超えていく。
そのことが宇宙の中に光をさすことになるのです。

それを本当に信じて取り組むことです。

時代も神も目には見えません。人間の理解を超えています。
ですが、この世界にはそういう秩序が確実にあるのです。
そこに一人一人の人間が理解を示すことが大切です。

宗教はご利益を求める人により発展しましたが、
本来はそういうものではありません。

信仰とは宇宙の法則性の理解です。

法則性を理解し、自分が・・・という心を超えていく。

そのような本当の信仰心の下、天と共に生きていくのです。
それが世直しであり、この世界に平和をもたらします。


☆彡 ☆彡 ☆彡

自分の健全、健康、幸福を求める心は自分視点であり、それらは多くの惑いを生み出します。そこから学び、その心を超えたトキ、この世界の法則性という太陽の視点と出会います。その視点に気づくことがこの世界に光をさすことに繋がります。

天王星は革命、変革の星です。その天王星が始まりの星座、牡羊座にあるトキと銀河の夜明けの期間はほぼ重なります。それは根本の大きな革命を意味します。そして今、天王星は行ったり来たりしながら牡羊座から牡牛座へと移行しつつあります。それは根本で起きた革命を現実化していく流れを表しています。

自分視点の日常が生み出す惑いを、太陽の光の下、学びという豊かさに変換していく。

それがきっと天体が示しているメッセージ。だから僕はそんなふうに生きていこうと思っています。
8月8日の富士山と太陽です(^-^)





余裕がほとばしり出るような徳の積み方(2018)

一緒に暮らす木の花ファミリーのみんなです。


こうやって賑やかにしていると、人の目は表面に顕れる出来事にいきます。ですが、その奥に流れているものがあってそれは常に新しい流れを生み出し続けています。そこに目を向けていないと新しい動きには間に合わなくなっていくものです。

ロータスランドが始まり、私たちの暮らしは特に忙しくなりました。忙しい毎日を送っていると、給料を貰い生活をしている人々ならば、ストレスが溜まってきます。そのためストレスを解消するためにお金や余暇が必要となります。ですが、ここの人達は忙しい毎日を送っても疲れて眠くなるだけです。それはこの暮らしの安心感がもたらすものですが、その余裕、ゆとりのようなものを心磨きに向けていく必要があるのです。

忙しく賑やかな毎日を生み出している奥のもの、そこを緻密に見ることによって、プロセスから学び、それは自分の成長として積み上がっていきます。その成長が天の生み出す新しい流れと呼応していくのです。表面的な賑やかさにかまけて、安心感の中、ぼうっとしていると次の流れには間に合わなくなるのです。



☆彡 ☆彡 ☆彡

上記は昨年の7月、お客様で賑わっているロータスランドを眺めながらジイジ(当時はいさどん)が語った言葉です。余裕をもって、日常の奥に流れているものに目を向ける大切さを語っていますが、当時、ジイジは以下のような話をよくしていました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この世界は氷山なんだよね。海面から見えるのは氷山の10%だけ。残りの90%は隠れている。それで、世間が言っていることは見える部分で、それを無視するわけにはいかないが、例えば、風が北から南に吹いている時、氷山は別の方向に動くことがある。それはなぜか?奥にある海流が別の方向に流れているからだよね。世間の風はこっちに吹いているのに現実が違う方向に動くことがある。安倍首相がいくらデフレ脱却、実質2%、名目3%の経済成長を目標にし、日銀を利用してマイナス金利まで導入しても、それはうまくいっていない。それは時流を読んだら、今の人間社会の表面に見える人間の欲得の世界ではなくて、時代の動き、宇宙は今、何を人間に与えようとしているのかということを読んだら、安倍首相は逆をやっている。だから表面に見える社会現象をすべてとしそれに乗ることを止めなければならない。たとえ世間からは理解されなくても何か別のものを見て時代にのっていくことが大切。本当の流れは表面からは見えない海流が生み出しているのだから。



☆彡 ☆彡 ☆彡

氷山の奥、そして氷山を動かしている海流に目を向けることが大切になりますが、それを可能にするのが、目の前の出来事から自由となる余裕やゆとりだと思います。そして、余裕ということで言えば、3年前の6月、ジイジは僕について以下のように語っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

なかのんは真面目で一生懸命やっているが、もう少しそこに余裕があると、あの人は本当に徳を積んでいるねということなんだけど、一生懸命「この道だぁぁぁ」とやっていると、そこに余裕がないと、何とか一生懸命気合いを入れてそこを保っているという状態。

余裕がほとばしり出るような徳の積み方というものがある。



☆彡 ☆彡 ☆彡


この言葉を受けて、今思うことは、余裕がないと「道」ですら囚われの対象となるということです。たとえば、「執着をなくそうという志」が「執着があってはいけないという囚われ」となります。結局、「道」とは何か思い描いた理想の境地へと辿り着くことではなく、出会う出来事をそのまま潔くいただくことで変化し続ける過程なのです。宇宙が絶えず変化変容を繰り返すように、この「道」にも終わりはなく、常にプロセスの中にあります。




よゆう

カタカムナで見ると、「混沌、よこしま(よ)が揺らぎ(ゆ)渦(う)となっている」という感じでしょうか。これは一見ネガティブにも見えますが、「よ」は「世」、この世界そのものです。清濁併せ持ったこの世界を表していて、それが揺らいでいます。揺らいでいるということは固定しないということで、それもこの世界の法則そのものです。それが渦になっている状態、それが余裕(よゆう)で、「う」は星雲の渦巻きに見られるように万物発生の基本となっています。

このように見ていくと、余裕(よゆう)はこの世界のすべてを生み出すもので、余裕がないと新しい何かを生み出すことは出来ず、今あるものに追われるだけとなっていくのです。

混沌、よこしまが揺らぎ渦となっている

この一見ネガティブに見えるものを受け入れ、そこに向き合うことが余裕(よゆう)となり、そこから新しい何かが生まれるのでしょう。

徳積みも余裕がなければ、例えば使命感や義務感のようなものに追われるだけとなります。そうするとこの世界に新しい流れを生むことは出来ず、表面の出来事に右往左往することになるのでしょう。

この世界に本当の流れを生み出しているのは氷山の奥、海流です。余裕があるとその事実が見えてきます。そして、その流れと共にあることで、この世界に新しい流れを生み出すことが出来るのです。

ジイジから余裕を持つように言われてから3年が経ちました。

当時から比べたら、今の僕ははるかに余裕がありますが、これからさらに「混沌が揺らぐ渦・よゆう」と向きあい、余裕がほとばしり出るように徳を積み上げていきます。


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