「天気の子」から見えるこれからの生き方


瀬織津姫(セオリツヒメ)や男神・天照(アマテラス)、国常立尊(クニトコタチ)など。封印されていると言われる神々がいますが、以下は国常立尊に関する話です。

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宇宙の創造神である七代の神々が世に現れ、そこから個性豊かな八百万(やおよろず)の神々が次々と生まれた神代の時代。自由気ままに振る舞おうとする八百万の神々に、地の大神様は世を乱さぬようにと心の掟を厳しく説かれました。地の大神様は名を国之常立大神(くにのとこたちのおおかみ)といい、その厳しさ故に八百万の神々から疎まれておりました。

「こう厳しくされてはかなわん。何とかならないものか。」
相談した八百万の神々は、天の大神様のもとへと向かいました。
「どうかあの神様にご退陣頂けるようお願いくださいませ。」
八百万の神々の懇願を受け、天の大神様は国之常立大神にこう伝えました。
「すまないが、一度この世の表から退いてくだされ。しかし、いつか必ず世が立ち行かなくなる時が来る。その時再び現れ、この世界を立て直してくだされ。」

それを受けた国之常立大神は、艮(東北)の方角へと退かれ、それより後「艮の金神(うしとらのこんじん)」と呼ばれるようになりました。そしてこの方角は「鬼門」として恐れられ、封印されたのです。


それから、長い時が経ちました。八百万の神々が好き勝手に振る舞った結果、世の中は荒れ放題。自分さえ良ければ良いという「我よし」、力あるものが弱いものをねじ伏せる「力よし」の世となり、まさしく、かつて天の大神様が「いつか必ず世が立ち行かなくなる時が来る」と言われた時代が訪れたのです。


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話は変わって。

日本全国で梅雨空が続く中、木の花ファミリーのみんなと映画「天気の子」を観ました。この映画は「君の名は」同様、瀬織津姫がテーマになっていると言われています。(天下泰平ブログ・瀬織津姫を描いた『天気の子』参照)。2012年12月21日、銀河の冬至を過ぎた今、真の女性性の蘇りが時代のテーマとなっています(「真の女性性が蘇る」参照)。その象徴が瀬織津姫。新海監督がそれを意識した可能性は大きく、映画の隠されたテーマと言えると思うのですが、そこには新海監督の思惑や感情が多く入り込んでいると感じました。

映画は男女の恋愛を描いている側面が大きいのですが、瀬織津姫の復活、真の女性性の蘇りは恋愛を超えるものです。真の女性性について、滝沢泰平さんは以下のように述べています。

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『夜明けの晩』に本当の自分と出逢うこととは、自分がこの地球で実現させたかった真の想い・自分自身の中に眠っている未知なる才能と出逢うことを意味しています。

今回の夏至の瞬間を誰よりも待ち望んだけれど、既に魂が肉体を離れ天に戻った私の親友である先住民族の長老はこのように語っていました。

 新たな時代への潮流の中で大切なことは、(それが一番良い方法だと信じて)全てを自分でやろうとするあり方(誤解)から自分自身を解き放つことだ。自分が望む結果よりも、遥かに偉大な結果へと天が導いてくれるということを信じて委ねられるか。それは、また宇宙時間への回帰の大切さを意味している。』

そのためのキーとなるのが、自らの中に「真の女性性を蘇らせる」ということだと思います。

真の女性性とは

『天の愛を受けとる在り方であり、天に導かれながら生きていくということ。』

かつて、「死」さえも天が統治して導いてくれているということを感謝と共に受け入れていた時代がありました。身体を持った「生」の時間と、身体から離れた「死」という時間を、行ったり来たりすることは、"悠久の宇宙時間"の中に在る魂にとっては何も怖いことではなかったのです。

           天下泰平ブログ・第1話「宇宙時間」より

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真の女性性の蘇り。それは地上の誰かとの関係にではなく、天との関係の中で実現されます。映画で描かれているロマンチックラブは人間的な望みであり、それは監督の思惑や感情の表れだと思うのです。瀬織津姫の復活を表現するならば、個人的な感情は超えるべきもので、それを超えたトキ、天の愛のもと、出会う出来事をすべていただく偉大な人生が始まるのです。

それでも「天気の子」には今の時代に対する大きなメッセージが込められています。降り続く雨により水没していく東京。それは確かに瀬織津姫からのメッセージと言えます。

祈るだけで一部の場所を晴れにすることができる陽菜(ひな)は人々の望みを受けて祈りますが、その代償により自らの身体を透明にしていくことになります。そして陽菜が人柱となって消えたトキ、東京に晴れがもたらされます。降り続く雨は天の気の乱れの証。そしてそれをもたらしたのは、人々の気の乱れです。「我よし、力よしの世」が天の気を乱しているのです。そんな人々の望みを叶え、そして人柱となって消えて東京に晴れをもたらしたのが陽菜の行為です。それは人々の罪を見えなくする行為、闇へと向かう時代の行為と言えます。主人公の帆高はそんな陽菜を救いに行き、天(そら)から連れ戻します。その結果、東京に雨が降り続くことになり、水没していくのです。それは人々の心に相応しい姿であり、その行為は人々の姿を光に晒す大切な行為と言えます。

ですが、それだけでは不十分です。そこから「なぜ雨が降り続くのか?」という問いかけとそれを超えるための取り組みが必要なのですが、映画ではそこには触れられていません。それは陽菜を救った動機が「青空よりも陽菜の方がいい」からなのです。それは帆高のエゴであり、東京に雨をもたらしている心そのものと言えます。この心だと世界は狂ったままであり、狂ったままの世界を肯定することにしかなりません。

狂った世界のために一人の人が犠牲になる。それは狂った世界を支えることにしかならない。だから救いに行く。そして共に世界と向き合い正していく。

そんな心が真の女性性の蘇り、瀬織津姫の表現だと思うのです。

新型コロナウイルスの蔓延や自然災害、紛争など。これから世界は厳しい時代を迎えようとしていますが、それは光の下に晒された人々の真の姿です。なので、光へと向かうプロセスと言えます。その時代の流れを信じて、天に心を向けて生きていくこと。それは今、国常立尊=艮の金神様の復活としても表現されていることです。最後に富士浅間木の花祭りの「艮の金神と翁との問答」を紹介して筆をおこうと思います。

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艮の金神と翁の問答
〜 富士浅間木の花祭りより 〜

翁 
伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間 ところは当初の氏大神。木の花の佐久夜の御庭におわします、金色(こんじき)の尊き姿の御身は、どなた様にてござりましょう。

金神
この方は、艮の金神と申す。
時いよいよ来たれり。この度は、地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)。一度に清める神幽顕の三千世界。汝らの宇宙(うつ)、光一つ上ぐる仕組み。今の世は「我よし、力よし」の獣の世、蛇の「あやま知」支配する、穢れ逆巻く魔釣り(まつり)の世。

艮の金神とはいかなるお方にてござりましょう。

金神
この方は、宇宙(うつ)を創りた元つ神。こ度の宇宙の天意転換(たてなおし)、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事。この方隠れている間、「我よし」「あやま知」逆巻いて、神が息の出来ぬほど、穢れ汚れたこの世界、最後の最後の大仕上げ。この方再び現れたなら、光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり。古き仕組みに変わりたる、新たな仕組み始まれり。
縁ある御魂引き寄せて、掃除洗濯 済みしものより、神の使える器となりて、こ度の尊き天意転換、汝らご用に使うてやる。

一度はお隠れなされた御身が、再び現れ出ると申されるか。

金神
いかにも。この世は逆さまじゃ。どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくりかえすぞよ。これからは、神人、天地が一体の「弥勒の世」が始まるぞ。
故に皆々様、御魂磨いて下されよ。御魂磨かずおられては、使えるものにはならぬぞよ。
神多くの人民の、御魂目覚めて欲しいのぞ。汝ら皆々大切な、地球(くに)の日月の神々じゃ。
一なる花を二の花へ、二なる花を三なる花へ、大和の御魂を呼び覚まし、腹にまことを据えるのじゃ。
ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト
ヒからトへの尊き道を歩みきったるその先に 真のヒトの姿現れる。
この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ。汝らその役、引き受けられい。

引き受けましょう。我らこれより「弥勒の世」、創らんがためありましょう。

金神
皆々様、いよいよ金神動くぞよ。さすればこの世、嬉し嬉し、愉し愉しの世となりて、真の世が花開く。皆々笑え、愛し合え。真次々現れくるぞ。
あっぱれ、あっぱれ、富士は晴れたり、日本晴れ。
真の神が現れる。神人共に現れる。弥勒の世の幕開けじゃ。

真の真釣り(まつり)始まるぞ。新たな時代へ、船出の時じゃ。幕開け祝い踊ろうぞ。


大いなる意思と預言(運命)、そして人々の決意。

ハリーポッター』は魅力的な物語でいろいろな側面がありますが、そのうちの一つとして預言の物語と言えます。悪の帝王ヴォルデモートは自分を滅ぼす存在が生まれるという預言を聞き、赤子のうちにその存在(ハリー)を葬り去ろうとします。ですが、その行為により、自分を滅ぼす存在としてハリーを選ぶことになるのです。これは息子(エディプスに殺されるという預言を聞き息子を殺そうとして失敗したギリシア神話のライオス王の物語に通じるものがあります。

預言(運命)は絶対で避けることが出来ないのでしょうか?

一方、映画「マトリックス」も預言の物語と言えます。主人公のネオは周りから救世主と期待され預言者の元を訪れますが、預言者からは「あなたは救世主ではない」と言われます。それは「トリニティの愛するものが救世主になる」という預言と矛盾するのですが、トリニティはそのことは言いません。周りが間違えていたと思ったネオですが、その後自分のうちから湧き上がる感覚を信じ行動することで救世主になっていくのです。

避けようとしても避けられない預言がある一方、信じることで初めて実現する預言(運命)もあります。

僕が思うのは、ライオス王やヴォルデモートは利己的な人間で、それに相応しい預言が与えられ、利己的に振る舞うことで、それを実現したのです。もし、潔く預言を受け入れたならば結果は違ったのかもしれませんが、利己的な2人にはそんな選択肢はないのです。この二人の関心は自分自身にだけありました。そんな2人に預言(運命)を変える力はないのです。

一方、マトリックスのネオに示された預言(運命)は、自分のことというより、この世界についてのものです。だから、その預言を実現するには、自分を超える決意、強い信念が必要になるのでしょう。それはヴォルデモートを滅ぼしたハリーにも言えることです。

みんなから恐れられる存在、ヴォルデモート。

ですが、ハリーポーターの物語はヴォルデモートなしでは成り立ちません。だからヴォルデモートはとっても大切な役割を演じているのです。ヴォルデモートの特徴は、生に対する常軌を逸した執着で、自分の生を邪魔するものはとことん排除しようとします。生に対する執着。それは現在の自分の感情、認識を失うことに対する恐れと言えて、現代人の多くが抱えているものなのではないでしょうか?多くの争いや混乱を生み出している現代人、その奥には自分に対する執着があります。ヴォルデモートはそんな現代人を象徴していると思っています。そのヴォルデモートを滅ぼし救ったのは、自らの死を受け入れたハリーの行動です。自らの死を受け入れる。それは現在の自分の感情や認識を手放すことでもあり、現代人に必要で、現代人を救う姿勢なのだと思います。

それで預言といえば、ホピ族の預言が有名です。以下のホピの預言について、天下泰平ブログ「アイソン彗星とホピの予言」から引用します。

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ホピの予言を語る前に、まずホピ族とは、古代マヤ文明の末裔とされ、約1000年前に神に導かれて北米の地にやって来た人々のことで、主にアメリカのアリゾナ州に住むネイティブ・アメリカンの部族のひとつです。

神々から様々な予言を伝承されたホピ族の予言には、まるで近代社会を予知するかのような内容のストーリーが数多く存在しており、それらは岩絵などにも刻まれた“ホピの予言”として現代でも広く知れ渡っています。

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※“ロードプラン”と呼ばれる岩絵に描かれたホピの予言
この岩絵は、ホピの聖地オライビ近くの岩に描かれた有名な「ロードプラン」と呼ばれる絵です。左下の人物は、太霊マサウを表しているようで、右手にはたいまつ、左手には、数千年前、ホピが地上に出るのに通った「アシ」を握っています。

アシの右に見える円は“第四世界”という今の周期の文明を示しており、長方形は地上世界への脱出口「シパプ」で、そこから伸びる上の線は、多くの人が従う“物質的な道”を示すようです。

手を繋いでいるのは、彼らが物質的な生き方で結束していることを表し、波線の示す「混沌」がその結末となる戦争と破壊への道を表しています。

ホピが従うように命じられている道が、下線に示されており、それは“伝統派の歩む狭い道”で、トウモロコシ畑に立つ長老で終わっています。彼は伝統に忠実な者たちに約束されている平和と繁栄の象徴となっています。

この線沿いには、3つの円と縦線が見えますが、3つの円は予言された“世界大戦”で、最初の2つはすでに終わり、2013年の現在までは最後の1つ“ハルマゲドン”はまだ来ていません。

最初の2つの円に続いて、上下の線を結ぶ“縦線”がありますが、これは誘惑にはまって“進歩派(上の線を歩む人々)”になり、古来の信仰を捨てる人々の離反を予言しているようです。そういった人々が、3つ目の円(最終戦争)の前に出て来るようです。

この“ロードプラン”は、まさに今の二極化の世界、そして人類の進むべき道の岐路を見事に表現していると思います。

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もしホピの預言を利己的な心から軽視したり、恐怖から避けようとするならば、ヴォルデモートやライオス王のように滅びを引き寄せることになるのではないでしょうか?

ですが、ホピの預言を平和への預言と捉え、大いなる意思を感じそれに沿っていくならば、大いなる意思の存在を信じ自分を超える決意をするならば、この世界に平和と繁栄が実現するのだと思います。

預言を生み出し、預言を実現するのは一人ひとりの心なのだと思います。ということで最後に僕ら木の花ファミリーメンバーが信じている預言、ジイジの言葉を紹介してこの原稿は終わろうと思います。この世界を本当に豊かなものにするために。僕らは心を磨いていくのです。

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「いつかこの国を司る人たちがここへ来て、こう問いかけます。『私たちはこれまで、この国を豊かな国、本当に人々が幸せな国にしようと一生懸命努力してきましたが、いくらやってもどうにもうまくいかないのです。どうしたらこの国を正しく導くことができるのでしょうか。』

それに対して、僕はこう答えます。『それは、仕組みや制度をつくることではありません。ここにある自然を見てください。そして、そこに生きる人々の心を見てください。このような心で人々が暮らせるようになった時、そこは本当に豊かな国となるでしょう。』」




天の意思が轟く(とどろく)トキ

ちょっと前の富士山と太陽です(^-^)


【2019年12月のジイジの会話】

ジイジ  轟く(とどろく)とは、物理的にイメージすると、どのように表現できるか。雷の発生条件が整うと、その響きを天から地に向けて響かせること。いよいよ天の意思が地上を生きる人間たちに向かって、有無を言わさず轟く(地に響きわたる)。それは、災いをもたらすものではなく、意識の目覚めを促すもの。示す意志=天の轟き。

裕子  じゃあ人の意識がすごく変わるという事?

ジイジ  人の意識が変わるどころか、世の中の仕組みが変わる。時代の方向、流れが変わるのだから、この世界が存在する意味が変わる。人の意識は時代と共に変わるのだから、人の意識が変わるのではなく、時代が変わるから人の意識が変わる。

ゆうこ  そうか、意識は変えようと思っても変えられないということは、ただ受け取ればいいという事?

ジイジ  そんなことはない。自分の中にある強い自我の意識、その自我を自分の中で回すのではなく、自我を天に向ける段階で、自我は天との共有の意志となり、その自我に天の、つまり時代の意志が下りてくる。そうしたら、その者自体は時代の申し子であり、世の中のために生きることになる。しかし、どの方向に向かうかという意思は自分の中で決めなければいけない。

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この会話でジイジは、「いよいよ天の意思が地上を生きる人間たちに向かって、有無を言わさず轟く(地に響き渡る)」と言っていますが、今年に入り世界中で広がっている新型コロナウィルスはまさにそのような存在と言えます。だからこそジイジは今年の3月、コロナウィルスについて以下のように語っています。

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新型コロナウィルスの登場は、劇に例えるなら、物語のクライマックスとなる役者の登場のように感じます。それは、その劇を観ている観客達や、劇を演じている登場人物達が待ち望んでいたものですが、皆それまで劇に浸りすぎていたので、それが待ち望んでいた人物の登場であることを忘れてしまっていたのです。
これは、新たな劇の進行の予言のようなものです。そこで私たちは、なぜそれが登場したのかを理解し、その登場したものに対して敬意を表すると同時に、今までその存在を忘れて敬意を表さずにいたことを振り返る必要があります。忘れていたことに対する振り返りをしなければ、敬意を表することはできないのです。

 ~ 中略 ~

本来、人類が存在すること、生命が生きることは、私たちの手の内にはありません。そのことを理解するために今回の出来事が起きていることに気付いたら、この出来事は、私たちが生きていることは、この世界を創造する大いなる存在との連携の元にあるのだという、生命としての本来の立ち位置へ、人間をいざなってくれることでしょう。そのように捉えれば、私たち人間は今、このささやかな投げかけを厳粛に受け止めていく姿勢が必要なのです。

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僕たちが忘れていたことを思い出させるために新型コロナウィルスは広がっています。何を忘れていたかというと、「生命が生きることは、自らの手の内にはない」ということです。木の花ファミリー通信2020年夏至号「コロナウィルスはメッセージ~世界は人類の思い通りになるか」ではそのことを以下のように表現しています。

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私たちは、地上に光を注いだり、雨を降らせることができるでしょうか。毎日朝が来ることを、四季が巡ることを、地球が回ることをコントロールすることができるでしょうか。

産業革命以降、人間はまるで自分たちの力で世界を動かしているかのように振舞ってきました。しかしよく見てみれば、世界は人間の力で動いてはいません。毎日が来るのは私たちがカレンダーをめくりスケジュールをこなしていくからではなく、地球が回っているからです。地球も月も太陽も、他のあらゆる星々も、私たちの日常をはるかに超越したスケールで宇宙を巡り、それによって世界が動き、その中で私たちは生かされています。

その巨大な世界に秩序をもたらしているのが、時です。宇宙の万物はこの絶対の柱に沿い、過去から未来へと進み続けます。もしも時をさかのぼって地球が逆回りをしたり、死者が生き返るようなことがあれば、世界は秩序を失うでしょう。決して例外なく万物が絶対の約束のもとにあるからこそ、秩序が保たれているのです。

そもそも、この世界を生きることに、自由などないのです。誰も地球をコントロールできない。では自分のものだからと心臓をコントロールできるかと言えば、それもできない。眠ることを、呼吸することを、歳を取ることを、誰が思い通りにできるでしょう。私たちは決して抗うことのできない絶対の法則の中で命を与えられ、生かされているのであり、生きることで自らの手の内にあるものは何もないのです。それなのに、人間はすべてを自らの思い通りにしようとし、他者の思い通りになることは否定するのです。その結果、他者との共通点を見出すことのできない人々は、自らの創り出したものに支配されていくことになるです。

生命とは、生態系の循環の中でそれぞれの個性にふさわしい位置を与えられ役割を果たすものであり、本来自由でもなければ、平等でもありません。しかし人間社会は、民主主義という見せかけの自由・平等の世界を創り、自我から生まれる願望を一人ひとりが際限なく自己主張することが権利であり、進歩した世界であると思い込み、それが麻薬のように広まって、生命の本質からどんどん外れていきました。本来、生きることには優先順位があり、第一優先事項を第一番目として、二番目や三番目を一番に持ってきてはいけないのです。現代の人々は、自我の欲望から生まれる五番目や六番目を第一として生きています。だから世の中が狂うのです。新型コロナウィルスは、その狂った世の中の実態を暴き出し始めたのです。

そのメッセージに気付かず、人間がこのまま進み続ければ、世界はより過激な第二、第三の刺客を送り込んでくることでしょう。人々はコロナウィルスを、抑えても抑えても増殖して自分たちの生活を脅かす脅威と捉えています。しかし地球の側の視点から見れば、人間こそ、抑えても抑えても増殖し、地球の資源を貪り、他の生命を傷付け、生態系を破壊していく極めて有害な存在であると言えるのです。その人間の在り方に対し時代がNOを出し始めた今、私たち人間は、欲望のままに生きる自我の側から、その自我をはるかに超越し、私たちを生かし続ける世界の側へと視点を転換させ、自らの生き方を根底からひっくり返す必要があるのです。
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自らの想い通りにしようとし、際限なく欲望を広げた人類は、自ら生み出した欲望に支配されるようになっています。例えば、お金。交換をスムーズにするために生まれたお金は今、欲望の対象となり、人々はお金を求め、お金がなければ生きていけなくなっています。それは生命の本質から外れた世界であり、狂った世界と言えます。そんな世界に対して、これからは「天の意思が地上を生きる人間たちに有無を言わさず轟く」のです。それは新型コロナウィルスだけの話ではなく、これからずっと続くことです。それが2012年12月21日、銀河の冬至を超えたトキの流れであり、時代からのメッセージなのです。


2億2600万年掛けて銀河系を1周する太陽系。それは螺旋を描きながら公転していて、その1螺旋が2万5800年。人類はその太陽系の螺旋と共に長らく闇へ闇へと進んでいました。そのピークが2012年12月21日であり、それを境に天体は光へと進んでいます。だからこそ人類もその天体の意思に沿う必要があります。

闇へと進む間、人類は見せかけの良さ、見せかけの美しさの中で物事を曖昧にし、たくさんの矛盾を生み出してきました。曖昧にし、表面を取り繕う中で、他に生かされていることを忘れ、自らの欲望を許し際限なく追い求めることで見えない闇を広げてきました。その見えない闇がコロナウィルスなどの明快な問題ごとを生み出しているのです。それは一人ひとりの何気ない行動が生み出していることで、そのことをジイジは以下のように表現しています。

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発音が曖昧ということは、言葉が曖昧ということです。言葉が曖昧ということは、意味が曖昧ということです。意味が曖昧ということは、コミュニケーションが曖昧だということです。そうすると、自分の思うことも相手に伝わらず、相手の言うこともわからないまま適当に解釈することになって、曖昧な人間関係をつくることになっていくのです。そのように意識しないうちにすべてのことを曖昧にしていくと、やっていいことと悪いことも曖昧になります。そして、自分の行動に矛盾が発生してもそれをいいとも悪いともはっきりさせないまま、ただ都合のいい豊かさだけを追い求めていくからその豊かさも曖昧になります。そういった一人ひとりの小さな行いを曖昧にしていった結果、地球上にたくさんの矛盾が積み重なっていったのです。そして今、明快な災害が起きるようになりました。


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そんな現代の人々に必要な取り組みについてジイジは以下のように述べています。
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僕が今、考えているのは、人というのは自分を良いものだというふうに見せてカモフラージュしている。だから、正直でないことが染み付いていると、わからないことはこういうふうにしていこう、と見せたいものなのだ。自分の許容範囲の中に収めていきたいものなのだ。ところが、実際の人間というものは、日常親しく付き合っていればボロが出てくる。しかし、いちいちそこで問わない人間関係であれば、そんなことは誰も問わない。穏便にいけばいいから。お互いに自分の許す印象が維持されていれば、それでいいわけだから、それに言及しない。

ところが、それでは生きているという意味からしたら、人間は生きることによってただこの世界に役割を果たしているのではなく、自らのカルマというものを浄化するために生きている。だから、人間の生きる目的からは外れている。それをノーチェックでいって、そこに矛盾やエネルギーがたまっていけば、ぶつかったり、悩んだり、中にはうつ病になるものも出てくる。

そこに対して、その行動を理解して果敢に挑戦する気が自分にあるかどうか。そこをごまかして、自分に挑戦しないで、逃げている。それを自分だけの問題だと思っているのだが、それが世界の空気をつくっていく。

ここで難しいのは、自分の癖・性分というものは捨てるものではないということ。癖・性分というものは直すとか捨てるとか、そういうものではない。癖・性分というものは、有効に生かすというところで、初めて変化をもたらすことができる。そうすると、人は癖・性分を有効活用するというところになかなか行かないものだ。だから、同じことを繰り返す。

そこで、癖・性分を有効活用するにはどうしたらいいのか。まずは出来事を癖・性分で受け取っているのだから、出来事を客観的情報として冷静に分析する力を身につけないといけない。しかし、自分から離れて事象を観ることは難しい。それに一喜一憂している自分に対して、自分から離れて、それを観る。しかし、それは簡単にできるわけがない。一生の問題だから。

そのときに、それが可能になるのは真剣に取り組んでいく姿勢。真剣でも、方向が間違っていたら、同じような滞りが繰り返し起き、そのうちに嫌になって、やる気がなくなり、ダメになるというものも出てくる。一生懸命だったって、ただ一生懸命やっていると、ダメになる一生懸命もある。

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物事を曖昧にし、表面を取り繕いながら一生懸命に努力しても改善にはつながりません。これから轟き続ける天の意思は真実の光の下にそんな姿勢を暴いていくのです。だから、本質に向き合わず対処療法を続けていても問題ごとが治まることはありません。思惑を手放し真実に向き合う勇気が必要になります。そして自らがこの世界に生かされていることを思い出し、自らの意思を天に沿わせたトキ、真実の光の下に一人ひとりの癖・性分が生かされ、この世界に調和の響きが広がっていくことでしょう。

今、天の意思が地上に轟くトキを迎えています。

移ろいゆくものに心奪われることなく死の向こうまで伴える価値を積み上げていく

世界を思惑で染めていく僕は心の道を歩むことが出来ない。なぜなら心の道を歩むとは、この世界をありのままに眺め、ありのままの自分で世界と共に変化することだから。道を歩むことが出来ない自分、その自分は長年共に歩み続けてきた自分であり、離れるのが惜しい気持ちもあるが、袂を分かつトキが来ている。なぜなら、その自分と僕は歩む道が違うのだから。



2019年3月7日、魚座新月の日は朝から雨で、この季節には珍しく雷も鳴りました。そしてその夕方、雨はあがり、空には美しい虹が掛かりました。その虹はまるですべてを洗い流した空を祝福しているかのようでした。(「人類共通の学びを紹介していく」より)

2020年2月24日0時32分、再び魚座新月を迎えました。旧暦ではあれから1年経過したことになりますが、その中間地点ともいえる2019年9月14日魚座満月の日には、こんな文章をUPしています。

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目の前の出来事に右往左往せずにプロセスとして見ていく。こんなふうに思っていても、大きな衝撃に出会うと目の前の出来事に右往左往するようになる。大切なことを忘れてしまう。だから大切な姿勢を思い出そう。こんなふうに思考が展開したトキ、それは違うなと思いました。

出会う出来事はすべて自分に相応しく与えられています。大きな衝撃も今までの生の結果として出会うことで、目の前の出来事に右往左往するのは、自分の中の本質が育っていなかった証です。

プロセスとして見ていく。そんなことを語っていても、本質を育むことを怠り、物事に表面的に対応していると、そのうちそういう自分を教えてくれる現象と出会い苦しむことになるのです。その苦しみは天からの恵みとも言えるのですが、苦しみを超えてただ出会う出来事を楽しんでいく。そのようになるためには、それだけ自分の本質を磨く必要があります。

移ろいゆくものに心奪われることなく

これはお釈迦様が語った言葉と言われていますが、こういう聖人聖者が語った言葉を正解とすることは、結局、表面的な対応をしているに過ぎません。正解だと思うことに自分を合わせようとしているだけなので。偉大な言葉は道しるべに過ぎません。この世界に前もって分かる正解はなく、すべては今までの生の結果であり、人の本質はあくまで出会う出来事を通して磨かれていきます。磨いた結果、自ずから悟り(差取り)に至るのが本当です。


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移ろいゆくものに心奪われることなく、何を大切にするかと言ったら、死の向こうまで伴える価値を積み上げていくことです。ここで、5年前にジイジ(当時はいさどん)が僕に語ってくれた言葉を紹介します。

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そろそろ人々は、そういった個人的なことを優先して生きることをやめるトキが来ている。結局、人間が個人的なことを優先し、それが70億人集まって、今のような世界を創っているのだから。それと、人間の世界の中でどんなに優劣を競ったところでたかだか知れているよ。そのたかだか知れているところで生きても、いつか自分が霊的な存在になるときに、自らの価値を突きつけられることになるんだよ。

これから大切なのは、つないで、時代を創っていくことなんだよ。

死の向こうまで理解するものたちが生きているからこそ、死の向こうまで伴える価値を積み上げていくことができる。それが人生の勝利者であり、道を目指すものにとって一番大切なことだと思うんだよ。

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死の向こうまで伴える価値。それは過去から未来へと繋がる大いなる循環、プロセスの中で現象の奥に見いだされます。ここでもう一つ、ジイジが語った言葉を紹介します。

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スピリチャルなワークショップをする人々は、それを完璧でパーフェクトになる道というが、パーフェクトと言っても常に足りないのだと思う。僕はパーフェクトなんて考えていないが、パーフェクトを目指していく過程が大切だと思っている。だから出来の悪い存在も大切となる。

一つの視点からすると、神様は不完全なものを創ることによって完全への道を示された。生命というものは動くこと、循環することが生命の表現、だから完成された状態でも、未熟でも、そこで止めておくというのは生命ではなくなる。神の実態は経路。神経。循環だから。そうしたら、その経路を移り行くこと、それが時空で宇宙の実態なのだから。そうすると、ひどい話が神の意思と言える。ひどい状態からスタートして、それを知って変化していくことが神の存在の顕れ。だからと言って、ひどいことやっても大丈夫ということではない。ひどい話という実態から進んでいくということ。そうでないと希望も喜びも生まれない。

これが分かれば分かるほど、人間たちにいかに難しいことかと思う。すごく複雑。ちょっと分かるとすごい感動するけれども、こんなに素晴らしいのですよと言えるかと言ったら、そんな単純なものではない。美しいことを語り、美しいイメージに浸ればいいというものではない。




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動くこと、変化変容することが生命の表現であり、循環することで神の経路を表現しています。日々の生活をそういうものとして位置付けることできっと意識は今生を超え、人生に大いなる価値を見出せます。

気候変更、戦争や紛争、そしてコロナウイルスなど。今、世界はとてもひどい状態ですが、それを知って変化していくことできっとすべての中に神聖なものを見出すことが出来ます。移ろいゆくものに心奪われると、目の前の出来事の出来不出来に一喜一憂するようになりますが、その奥には、神の経路である時空が広がっています。そこに顕されている神の意思を知り変化していくこと。その変化はきっと魂の履歴として死の向こうまで繋がっていきます。そして、そういうものたちが集まった世界はきっとジイジが語るこんな世界です。

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僕は話をする時にいつも、頭の中に絵が浮かんでいます。ですから、自分が話している音源を後から聞くと、その時に浮かんでいた映像がリアルに思い出されるのです。そこで僕は自分が話すのを聞きながら、この次に自分は何を言うだろうかと想像します。言葉を聞いて次の言葉を想像すると外れることがありますが、頭の中の絵をもとに次の言葉を想像すると、合っているのです。つまり、そこには何かしらの物語を綴るイメージがあるのです。
今日の話の時にも、僕の中にはあるイメージが浮かんでいました。それは、この道を生き切って晴れ晴れとした気持ちでいつか自分が臨終の床についた時に、深い縁を頂いて共に歩んできた皆へ「よくぞ共に歩んでくれた、ありがとう、私は逝くよ」と別れを告げているイメージ・・・・・・・ではありません(笑)。そもそも、そのような自分のための悟りの段階は、地球に降り立ちヒマラヤの苦行者として生きていた遠い昔に、とうに卒業しているのです。
なぜ涙が出てきたのか。あの時僕の中にあった映像は、目の前にいる一人ひとり皆がその境地に至り、人として生まれてきた目的を達成し、晴れやかに旅立っていく姿でした。それは同時に、今の世の人々 ——— 蛇のあやま知に支配され、溺れている人々が、目覚めることにつながっていく。この道は、そこにつながるために歩むものでなければなりません。
すべての人の道がそこにつながるべきものであるならば、その手掛かりとして、まずはここの人々が、一人ひとりの人生を通し、そういった境地で旅立てる結果を自らにもたらすこと。そのような境地に皆が至り、喜びと共に旅立っていく映像が観えた時、まるで映画を観るように感動したのです。自分自身のことよりも、縁ある魂たちがそのような境地で旅立ってくれることを思うと、喜びが一層増すのです。
光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり」より


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人は死ぬ時自分から離れて客観的な視点から自分の人生を振り返りますが、その時、本当の自分と世界の姿を知ります。その視点は万人に共通したもので差がないから「悟り」と呼びますが、多くの人はそこから見える自分と世界の姿に驚愕します。ですが、トキ既に遅し。もう何も出来ません。この視点こそが永遠に続く価値で万物の変化を生み出す土台です。生きながらにしてその視点を得て、その視点から生きることが人生の勝利者となることで、その価値は死の向こう側まで永遠に続いていくのです。
木の花ファミリーのみんなです。


自然で当たり前のことを当たり前にする(2020年)

木の花ファミリーでは元日のお昼はみんなで集まり、一人ひとりが今年の抱負を語ります。「今年の抱負」と聞いてはじめ何も浮かばなかったのですが、そのうち「当たり前のことを当たり前にする」という言葉が浮かび、僕はそんなことを語りました。この言葉を語っているトキ、僕は昨年の7月に書いたこんな文章を思い出していました。

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自然のことを気にせずにやりたい放題をして来た人類の姿勢は、昼夜逆転の生活を送っているようなものとも言えます。その結果、人間社会は自然との繫がりや秩序を失ってきたのです。

自然で当たり前のことを当たり前にする。

今の人間社会はそのことが出来ていない状態で、その表れとして、鬱や引きこもり、人々の分断や対立、そして自然災害があるのだと思います。

自然で当たり前のことを当たり前にする。

そのことが最善を尽くすこととなり、ヒトとヒトは繋がり、出会う出来事をいただき実力をつけていく基盤となるのです。今まで見てきた景色は、乱れた思考や生活から生み出されたもの。それが未来を作り続けるわけではありません。


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当たり前のことを当たり前にすることは人生の基盤を整えることです。基盤さえ整っていれば、後は天が相応しい流れを与えてくれます。「どうこうしよう」とか「どうこうしたい」と思う必要はなくて、ただ当たり前のことを当たり前に出来るように心掛けていればいい、そんなふうに思っています。

そして、このブログの「当たり前のことを当たり前にする」は美しい響きの言葉を広げていくこと。ということで、木の花ファミリー通信100号からの言葉を引用しますね。

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宇宙生命交響曲の指揮者としての目覚め

地球は宇宙の奇跡です。そもそも宇宙が現象化を起こしたことも、奇跡なのです。それは人間の思考などはるかに及ばぬ、偉大なる意思からのメッセージです。ですから、この星の存在が宇宙的には奇跡であることは当然であり、それは宇宙の神秘と言えるものです。そしてその神秘は、私たちの日常の隅々にまで配置されています。しかし物理的思考に汚染された現代人は、そのことが信じられないのです。そして目の前に既に奇跡があるのに、それを奇跡と理解できないほどの愚かしさに陥っているのです。その愚かしさに気付き、そこにある神秘(神の秘密)を、秘密としてではなく、私たちの日々の生活の中に当然のものとして表現していくことが、この星から矛盾を取り除き、美しくしていく第一歩なのです。

現在地球上で最も繁栄している生命は、人間です。生命とは本来、増えれば増えるほど豊かさを表現できるものです。宇宙の本質が善意と愛と調和であるならば、より多くの存在と共有の世界に生きることで、より多くの存在とつながり支え合う多様で豊かな世界が表現できるのです。しかし、現代の人間たちがつくる世界は、増えれば増えるほど、限りない矛盾を生んでいるのはなぜなのでしょうか。私たちはそのことに気付かねばなりません。

地上天国と聞くと、人は絵に描いた世界のように感じ、不可能だと思うかもしれません。しかし今、視点を変えて観れば、地上に人間が積み上げてきた矛盾への破壊が始まり、既存の社会システムが崩壊し始めたことにより、逆に地上天国が近付いていることが観えてきています。様々な現象を通して地球が発しているメッセージの背後にある意思を感じ取れば、その意思は、人類の誕生以来ずっと夢に描かれてきた理想郷を、私たちにもたらそうとしていることが観えてくるでしょう。そしてその実現は、私たち一人ひとりの目覚めに託されているのです。

近代の人類が陥ってきた自分本位もしくは人間本位の世界観は、私たち自身に大きな矛盾をもたらすだけでなく、私たちの生命としての種がこれから地球上で栄えていくことに、大きな影を落としています。この現実から来るメッセージを私たち人類は今、受け取り、自分本位の生き方から、この宇宙の奇跡である多種多様な生命の兄弟と共に、美しい地球生命生態系を表現していくことが求められています。それは、地球生命の頂点に立つ私たち人類の使命であると言えます。今、2000年を越え、3000年に向けての新たな宇宙時代を迎え、私たちは宇宙視点の元に、宇宙の奇跡であるこの星の生命たちの奏でる宇宙交響曲の指揮者にふさわしい位置に立つ時が来ているのです。

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人間の思考を超えたものがこの世界を創り、そして人間は思考を超えたものに生かされています。その大いなる「はたらき」(傍楽)を最大限に活かすために、当たり前のことを当たり前にすることを心掛け、場を整えていく、それが今年の僕の抱負です。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

木の花ファミリーのみんなです。

かに座満月です(2020年1月11日6時頃撮影)

突破口は気づきにある(認識を更新していく)



我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分の想いを通そうとしても、突破できないのは当然と言えます。ですが、人はそれを周囲のせいにすることもあります。自分の考えは正しいのに周りの理解がないから実現出来ない。こんなふうに考え、それに固執し、その結果、停滞していくのですが、それも自分の想いが生み出している現実です。

気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。
突破口は気づきにあるより)

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2019年1月6日午前10時29分、山羊座新月となったトキ、僕は上記の文章(姿勢)を確認しました突破口は気づきにある(2019年山羊座新月を迎えて)参照)そして今日、12月26日14時12分、今年2度目の山羊座新月となるタイミングで改めてこの文章(姿勢)を確認しています。そして今、もう一つ思い出したのが、こんな言葉。これは「人間らしさとは何か?」という質問に対して答えたものです。


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仏陀がすべてが繋がり合うこの世界の中で「天上天下唯我独尊」と語ったのは、自分が消えたら認識が消え去るから。これは認識に価値を置いた言葉で、人間を人間にしている人間らしさは「認識」にあると思っています。

だけれども、人間の認識は自分の身体や経験に縛られていて、そのままではこの世界の真実の姿を観ることが出来ません。だから心を磨いて自我を手放し自分の視点を超えていくことが大切なのだと思っています。


自分の思惑や感情を手放し目の前の出来事に心を開き、そこから学ぶトキ、変化は自ずから起きて、そして自ずから成長していきます。自分の想像を超えた自分と出会うことが出来ます。

多くのヒトが共に暮らすコミュニティは多くの視点が混じり合うことで自分の視点を超えるようにと導いてくれます。その先にあるのは、この世界の実相への認識。それは無限の深みがあるもので、探求しても探求してもきりがなくて、いつも自分の想像を超えてきて、面白く面白くて仕方がないものなのです。


一人ひとりの認識がこの世界を創っている」より


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人間を人間にしている人間らしさは「認識」にありますが、今の人々の「認識」は多くの問題を生み出している現代社会に汚染されています。多くの人は自分の想いを通そうとしますが、その想いは「認識」同様、現代社会に汚染されているので、世界の問題を助長することに繫がっていくのです。平和運動など、世の中を良くしようとする想いが対立を生み出しているのはその一つの表れと言えます。

そんな現代を突破するには、気づきが必要となります。気づきとはこの世界に対する理解。それは出会う出来事に心を開くことで深めていけます。理解を深めていくことで認識を更新していくこと、そのことが世界に変化を生み出していくのです。そんな変化を促すものとして「木の花ファミリー通信2019年冬至号」の文章を一部紹介しますね。

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自我の暴走は、人類のもたらした地球規模のテーマ

人類はもう一度、生命としての原点に立ち返る時が来ています。

視野を再び宇宙へと広げてみましょう。今、私たちはまぎれもなく、宇宙に生きています。宇宙ではすべてが連鎖し、循環し、調和しています。この大宇宙の法のもとに銀河があり、銀河の中に太陽系があり、太陽系の中に地球があり、その地球上に表現された緻密で美しい大生命生態系の中に、私たち人類は存在しています。もしもこの宇宙の法に狂いが生じ、現在のバランスが保たれなくなれば、私たちはたちどころに存在できなくなるでしょう。人間を含めたすべての生命は、この大いなる宇宙の法のもとに生かされているのであり、その大本の法に沿って生きることは、生命として当然のことなのです。

現代人はお金や物など、目の前の形あるものに心を奪われ、物理的な意識がとても強くなっています。ですから環境が汚れればそれを浄化しようと新しい技術を開発し、争いが起きれば互いの利害を調整するために交渉するなど、物理的現象に対し物理的結果を目的とする対処で解決しようとするのです。しかし、宇宙の本質は物理性ではなく、霊性にあります。すべての現象の奥にスピリチュアリティがあり、それが元となってこの物理的世界の秩序が顕れているのです。
そのことに気付いた時、現代の人間たちの営みの奥にある姿勢は、物理性に偏りすぎていることがわかるでしょう。そして今、その偏りが矛盾を生み、現象となって現れてきているのです。それを物理的な行動によって解消しようとする前に、自らの霊的な過ちに気付き、それを正し、宇宙の本質を取り戻した時に、物理的な現象は極めてスムーズなものとなり、矛盾は自ずと解消されていくのです。なぜならば宇宙の本質とは、善意と愛と調和で成っているからです。

現代人は、世界は自分たち地上を生きる人間によって運営され、自分たちの意志が世界を動かしていると思っています。しかし真実は、地球は人類の誕生よりはるか以前に、宇宙の総意によって創られたのであり、長い進化の時を経た今も、宇宙の霊的なはたらきによって導かれ続けているのです。自分を中心にして世界を見ている現代人にとって、それは理解できないことかもしれません。しかしながら、時代が21世紀に入った今、私たち人類は、20世紀までの自己中心的な生き方を続けて淘汰されるのか、それとも30世紀に向けて、宇宙人としての認識のもとに、次の時代への進化のための新たな千年紀を歩み出すかの、大いなる岐路に立っているのです。

産業革命以降、人類の暮らしは飛躍的な発展を遂げましたが、それは人間の能力がどこまで伸びるのかという可能性を試された時代でもありました。自然はその人間の行いを受け入れてきましたが、それは他者の迷惑を顧みず自らの欲望を追求し、全体の秩序を乱すことを許可したのではなく、それをするとどうなるかを、人間が自らの行いから学びとする期間でもあったのです。もしも人間の活動が現在の地球の状況をつくっているということにメスを入れるのなら、私たちは、その人間の代表が自分自身であるということに気付かねばなりません。これは環境問題ではなく、自我の暴走という、全人類に共通のテーマなのです。

それを解決するのは、制度や仕組みを作ることではありません。過去にも、資本主義の問題点を克服しようと、人間は共産主義という新たな仕組みを作りました。ところが共産主義を理想として掲げた人々は、自らの作り出した仕組みに溺れ、資本主義の問題点を克服するどころか、人々を管理する体制によって無個性な社会を創り、その理想は有名無実なものとなっていったのです。そのように、どれだけ新たな仕組みを考え、世界を良くしようと思っても、その問題を生み出す根本にある精神にメスを入れなければ、それは良くしようとするもどきに過ぎないのです。

ではその根本原因、即ち自らの心を振り返り改善する時に、私たちは視点をどこに置くべきなのでしょうか。

それは、私たちが存在する前にまず生態系があり、地球があり、太陽系があり、銀河があり、宇宙があり、その大いなる序列のもとに私たちが存在しているという、この世界の命の仕組みに心を向けるべきなのです。その時に、現代を生きる人々にとって最も難しいのが、自らを基準とし自分の側から世界を見る視点を離れ、自らを生かす世界の側に立って物事を観ることです。自我から湧き出す思考のままに主観で生きてきた人間たちが、自我を超え、大いなる宇宙の意思と共に世界を創造していく側へと舵を切る。それは、人類史上最も大きな方向転換、即ち軌道修正です。そしてその視点は、私たち人間が地球に降ろされた真の意味を知ることにつながっていくのです。

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この言葉が世界中に轟き(とどろき)、人々の認識が更新されていくことを願っています。



木の花ファミリーのみんなです。


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