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天上天下唯我独尊から天上天下全我全尊へ

仏陀がすべてが繋がり合うこの世界の中で「天上天下唯我独尊」と語ったのは、自分が消えたら認識が消え去るから。これは認識に価値を置いた言葉で、人間を人間にしている人間らしさは「認識」にあると思っています。

だけれども、人間の認識は自分の身体や経験に縛られていて、そのままではこの世界の真実の姿を観ることが出来ません。だから心を磨いて自我を手放し自分の視点を超えていくことが大切なのだと思っています。


自分の思惑や感情を手放し目の前の出来事に心を開き、そこから学ぶトキ、変化は自ずから起きて、そして自ずから成長していきます。自分の想像を超えた自分と出会うことが出来ます。

多くのヒトが共に暮らすコミュニティは多くの視点が混じり合うことで自分の視点を超えるようにと導いてくれます。その先にあるのは、この世界の実相への認識。それは無限の深みがあるもので、探求しても探求してもきりがなくて、いつも自分の想像を超えてきて、面白く面白くて仕方がないものなのです。




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上記は昨年の6月、「あなたにとって人間らしさとは?」という質問に対して答えたものです。この世界に認識が生まれたのは、相反するものが存在するからであり、認識を生み出す自我は、天とは相反するものとして存在しています。相反するものとしての自由が与えられた自我は、自分で生きているという錯覚に陥り、天の法則を忘れ、自分の都合の良い世界を作ろうとすることで、天から切り離され、孤独となっていきました。

天上天下唯我独尊

本来、その「我」の中にはすべてのものが含まれているのですが、今の人間はそのことを忘れているから、「自我」を手放し天に心を向けることが大切となります。ですが、それは「自我」と「天」というように固定することではありません。そのことをジイジは以下のように語っています。

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「あなたは自分の考え、理想、価値、興味、意見を捨てるでしょう。」というマザーの言葉。それは自我を捨てて、天のままに生きるということです。僕は昔、それを天のマリオネットと表現しました。でも、その考えは今は変わっています。昔、夜、外に出て上を見て、月が出ていれば月、星が出ていれば星、曇っていたら、その上に星や月を想像して語っていました。

「神さま、私はあなたの意志に沿うものです。」

そうすると、そういうことを語っていた時、その間違いに気付きました。「あなたの意志に沿うものです」ということは、あなたという意志があって、そして、それを受けている自分がいるということです。でもよく考えてみたら、あなたという意志はわたしに表れています。だから、本当のそれが通じた時に、私の意志はあなたそのものなのです。

あなたはわたし、わたしはあなた。

その時、「神さま」とそこに気持ちを向けたり、「あなたの意志」というようにそこに特定を持った時に、すでに自分、自我を成立させているのだと気づいたのです。

まわりてめくる。

すべては新しい出来事として学ぶべきことです。常に新鮮で新しい毎日が来るわけですから。

                       「相応しいものになっていく。」より

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本当に通じたトキには、私の意志は天そのものとなります。この世界は、陰と陽の相反する二つのものが互いを成り立たせ合う「対向発生」の原理によって創造されています。天と相反するものとして存在している自我は、天と「対向発生」するために存在するのであり、その奥には天の意志が隠されているのです。その意志を感じることが出来れば、私の意志は天そのものとなり、天と自分は対等な存在となります。

世界を一つの身体にたとえたならば、自分の存在は1本の髪の毛のようなものかもしれません。役割としてはごくわずかなもので、短い期間しか身体に留まりませんが、1本の髪の毛は心臓や肺、身体全体と対等なものです。自分の役割に徹し、身体全体を担うものとしての誇りが1本の髪の毛を身体全体と対等にしていきます。僕も世界に対してそんなふうな存在となっていきます。

自分の「思い」は天の意志の顕れです。それは、その「思い」に固執しろということではなくて、思う存分に表現することを通して天の意図を探っていくのです。自分の「思い」は全体の中の役割として与えられたもので、天の意図は自分の想像を超えていて、常に分からないものです。だからこそ先に行くことを楽しむことが出来るのです。「思い」から自由になることで、自らの「思い」と世界を楽しめる。その姿勢について、ジイジはこんなふうに語っています。

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そこで、僕たちは何をしているのかというと、天の意志を探っている。どういう意向があるのかという流れを観ている。僕がよく皆に言う、頭を使えというのは、ものを偏らずに観て、流れを観ていくということ。何をもって正解として受け入れるかどうかというのはない。現象をもって真実とすべしだから、成ったことを受け入れていく。成ったことで、天の意志を探っていく。

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この世界は相反するものの「対向発生」の原理により創造され、自我は天と相反するものとして生み出されました。時代が分離へと向かう中で、自我は、自らの都合の良い世界を生み出し、天から離れていくことで、自然災害や戦争や紛争など、それに相応しい世界が表現されてきましたが、銀河の夜明けを経て、時代は今、統合へと向かっています。陰と陽、男性性と女性性、天と自我、自分の内と外、相反するものが統合することにより「対向発生」による豊かさを表現する時代へと向かっています。そのトキ、すべての存在の「我」は、天との「対向発生」を生み出すものとなり、一人ひとりの個性が花開きながら調和した世界が生まれます。

天上天下全我全尊

2019年の冒頭にそんな言葉が浮かびましたが、多くの人々の「我」は、いまだ自分の都合を追い求め天とは分離し、社会の分断が進んでいます。

そんな中、僕が暮らす木の花ファミリーは、一人ひとりが自らの「我」を見通すことで、すべての人が全体性を意識し天と対向発生する場を創ろうとしています。最後に、その木の花ファミリーの正月風景を紹介して筆をおきますね。今年1年どうぞよろしくお願いいたします。

1日の朝、みんなで初日の出を見に行きました。

1日のお昼です。
1日のお昼です。
1日の夕食です。
1日の夕食です。
夜は子どもたち企画の元、みんなで遊びました。これはフルーツバスケット。
全世代参加の木の花リレー。まずは小さな子ども。
木の花リレー(小学生)
木の花リレー(子どもを乗せて腕立てをしてから走ります)
木の花リレー(途中で洗濯物を畳みます)
木の花リレー(腹筋をしてから走ります)
2日の夕食は餃子。子どもたちも一緒に600個以上作りました。


元旦の初日の出。雲の隙間から一瞬だけ姿を現してくれました。

この世界は鏡(かがみ) ‐ 神(かみ)と我(が)が出会う場所

木の花ファミリー通信2018年冬号のテーマは、「死生観第四部・性~すべてのはじまり」です。以下、その一部を引用します。

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私たちの生きる世界は、陰と陽の相反する二つのものが互いを成り立たせ合う「対向発生」の原理によって創造されています。この宇宙創造の原理を、性と言います。性という字は、「忄(こころ)」が「生きる」と書きます。「忄(こころ)」は、中心に天から柱が降り、その左右に陰陽の相反するエネルギーが生まれることを表しています。それは、天(宇宙)の心です。そして中心に立つ柱は、この世界を成り立たせている天の法則です。天の柱のもとに、陰陽の対向発生によって現象化が起きる仕組みを、天の心と言います。

そもそも、私たちはなぜ生きているのでしょう。それは、私たちを生み出し存在させているこの世界が、先にあるからです。

現代の多くの人々は、自分の力で生きていると思っています。しかし真実は、この世界があるから自分が存在しているのであり、この世界に存在するありとあらゆる生命、物質、現象、そして私たち人間も、すべてはこの世界を創造する天の法則のもとに生まれ、その法則により維持され、世界が成り立っているのです。その仕組みに沿い、それを柱として生きる生命の本来あるべき姿が、性という文字に示されているのです。

ところが現代の人々は、性を大きく取り違えています。自らを生かしている世界の仕組みに沿うのではなく、内から湧き出す自我の欲望を満たすうちに、人々は法則の存在を忘れ、性をストレス解消や快楽を得る手段ともするようになりました。そのように欲のままに行うことで後ろめたい心が生まれ、性は隠し事となり、歪められ、ついには売春やレイプのように本来の姿からはほど遠いことまで起きるような、真実とはかけ離れたものとなってしまったのです。性という創造のメカニズムが狂うことで、そこから生まれる世界のすべてが狂っている ──── それが現代社会の根本にあり、そのあり方を切り替えない限り、世界が健全になることはあり得ないのです。

私たちは性を通してこの世界に生まれ、性を通して次の時代に命をつないでいきます。それは、私たちが生命として誕生し、世界を維持し、時代をつなげていくために欠かすことのできない命の根本原理であり、神聖なものです。私たちの原点は性にあり、本来、人間に備わっている本能的欲求は、人間の尊厳を高め、生命世界に寄与するためにあるのです。

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この世界は、陰と陽の相反する二つのものが互いを成り立たせ合う「対向発生」の原理によって創造されていて、この宇宙創造の原理が「性」であり、すべての現象はそこから生まれます。人間の自我もそのような原理の中で生み出されたものであり、それは天と相反するものとして存在します。その存在目的は、天から離れるためではなく、天と共に新たなものを生み出すためにあるのです。ところが、自分で生きていると錯覚した人間は、天の法則を忘れ、自分の都合の良い世界を作ろうとすることで、天から切り離され、孤独となっていったのです。天とはこの世界そのもの。自我にとってすべての存在は本来、「対向発生」を生み出すパートナーであり、この世界で出会う出来事はすべて深遠なる真理へと向かう旅の途上にあるのです。そのことを木の花ファミリー通信2018年冬至号には、以下のように述べられています。

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万物は、パートナーシップの仕組みによって成り立っています。私と宇宙、私と太陽、私と月、私と地球、私と土、私と空気、私と水、私と生命、私と心臓、私と手、私と足、私と動物、私と植物、私と微生物、私と誰か、そして、私とすべて。私たちはいつも、すべての存在と共に生きているのです。それぞれの関係性に、遠い近い、濃い薄いはありますが、どれも欠かすことのできない大切なものであり、それがあるからこそ、今、私たちはここに存在しています。この世界に、単独で存在しているものは何ひとつありません。なぜなら、宇宙の本質はつながることにあるからです。つながるとは、善意であり、私とすべては善意による深い絆で結ばれ、そのつながりの中で生かされているのです。

そのようにこの世界の成り立ちを捉えた時、世界に孤独は存在しないことが観えてきます。今、多くの人々が、自分と世界をつなぐ絆を見失っています。目に見えるものだけが大切になっていく時代の流れの中で、たくさんの存在とのパートナーシップによって生かされていることが観えなくなった人々は、「自分一人の力で生きている」と錯覚するようになり、自分だけの幸せを追い求めるようになりました。その結果、社会に格差をもたらし、優劣の概念を生み、私たちの命を育んできた地球生態系さえ傷付けるようになりました。地球生態系は、今も変わらず私たちの命を育んでいるにもかかわらず、その絆は人間の側から一方的に分断されています。こうして現代は、多くの人々が絆を見失った孤独な人生を生きるようになりました。


しかし真実は、私たちは宇宙根本原理の性という、天の心を顕わす仕組みを通し、それぞれにふさわしい位置と役割を与えられ、他のたくさんの存在たちと共に、この世界へと生み出されました。その無数のパートナーシップが連鎖していくことで世界は成り立っており、最終的には、すべての存在が天との対向発生の中にあるのです。そのことに気付いた時、世界にはもはや、孤独は存在しません。そしてあなたの周りに存在するすべての関係が、宇宙の深遠なる真理へと向かう、深い学びの機会を提供してくれます。良いと思えることも悪いと思えることも、すべてはあなたとのパートナーシップを通し、真実に目覚めさせるための善意の心から発生しているのであり、その対向発生の中心には必ず、天の柱があるのです。

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人間は長らく、自分の都合の良い世界を求めることで、多くのものを封印し、一面的な世界を創って来ました。国常立尊(クニノトコタチ)、瀬織津姫(セオリツヒメ)などの神様はその象徴で、道理や女性性が封印されることで、欲望に基づく物質的豊かさ一辺倒の世界が生まれ、心が蔑ろにされてきました。今、世界各地に起きている自然災害は、そんな人類の姿勢に対する相応しいメッセージであり、気付きを促しているのです。

今、国常立尊(クニノトコタチ)や瀬織津姫(セオリツヒメ)の封印が解かれることで、道理や女性性が復活した世の中が訪れようとしています。神とは物理性であり、この世界の法則そのもの、つまりは天の法則です。天と相反するものとして生み出された人間は、神様を封印することで、天の法則を蔑ろにしてきましたが、これからは天の法則の元、相反するものが互いを生かし合い、新しいものを生み出し続ける時代となっていきます。

神(かみ)の中に我(が)が入ると鏡(かがみ)となります。この世界は、神 - 天の法則と我が出会う場所、鏡なのです。そのことをジイジは以下のように表現しています。

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生きるとは、自らの魂が生み出す「思い」を表現することです。思いは、それぞれの響きを持っています。私たちが生きて、思いを表現すると、その思いの響きがこの世界の何かしらに当たり、ふさわしい現象となって自らに返ってきます。自分がどのような響きを発するかによって、世界はその響きに正しく応え、ふさわしい出来事を与えてくれるのです。そうすると、人生で出会うすべての出来事は、自分自身を観ていると言えます。つまり、この世界は鏡なのです。

 ~ 中略 ~

生まれてきて、生きることは、命の仕組みです。それは宇宙の法則の中にあります。人生を生きるといろいろなことに出会いますが、その出会いは、自らの魂が何を発したかによって、それにふさわしい出来事が返ってきたということです。返ってきたものを見て、私たちは自分自身を知るのです。


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この世界は鏡、そこは、神 - 天の法則と我が出会う場所であり、パートナーシップの仕組みの元、すべてが善意による深い絆で結ばれている世界です。そこで人は、我(が)を存分に表現する自由を与えられていますが、それは天の法則から離れるためではなく、天の法則を学び、天との「対向発生」を生み出すためにあります。そこで僕が取る姿勢は、「思い」を表現しながら流れを観ていく姿勢で、ジイジの言葉を借りるとこんな感じとなります。

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そこで、僕たちは何をしているのかというと、天の意志を探っている。どういう意向があるのかという流れを観ている。僕がよく皆に言う、頭を使えというのは、ものを偏らずに観て、流れを観ていくということ。何をもって正解として受け入れるかどうかというのはない。現象をもって真実とすべしだから、成ったことを受け入れていく。成ったことで、天の意志を探っていく。

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性とは、陰と陽の相反する二つのものが互いを成り立たせ合う「対向発生」により新しいものを生み出すこの宇宙創造の原理のことですが、それを健全なものとし、世界を健全にするために、我を持つ自分と相反する存在である天の意志を探り、天の意志に沿っていくのです。そして「思い」を表現しながら、常にいただいた結果を今の自分の答えとし逞しく生きていきます。




みんなの中でよみがえり生きていく(4)

今、台風や水害、地震等で地方が破壊されている。今年は九州、大阪や広島、北海道など各地で災害が起きたが、そのうち大都市に災害がやってくるだろう。そうなると、日本は再生できないような状態に陥る可能性がある。そうすると、人々の生きる方向は群れることでしか選択肢はなくなる。これは今の社会の延長に新しい生き方を見つけようとするような生ぬるいものではなく、その選択肢はなくなり、群れで生きるしかない時代が来るだろう。そのときに精神性が伴っていなければ、それは限りなく混乱の方向へ向かい、そこで人々は群集化し、さらに混乱へと向かっていく。人々の精神性が伴えば、群れ化して、人々のライフスタイルが再編される。ライフスタイルの転換が今、人類に必要になってきたのである。確かに我々はそのさきがけなのだ。

来年のテーマである「軌道修正」というものは、まずは人々が目覚めなければ軌道修正はできない。目覚めた者たちにはこの星で生きることの意味が理解され、軌道修正ができる。地球の時間軸にたとえれば、ほんの少しの間の工業化の波が人間たちをテクノロジーの依存症にさせてしまった。もう人間の小手先のテクニックで生きていく時代は終焉を迎える。そして、人々が天と共に生きる時代が始まる。それが、新たに始まる時代の求める軌道修正だ。だから、来年2019年のテーマは「軌道修正」ということなのだろう。

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上記は、ジイジのブログ「時代が縮小のサイクルに入った今~2018年11月28日(天赦日)」からの引用です。来年のテーマとして「軌道修正」が挙げられていますが、「軌道修正」については、12月9日に行われた収穫感謝祭のトキにもジイジは語っています。以下、その言葉を引用します。

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今年は再出発の年でした。再出発とはどういうことでしょうか。それは、今までのことを振り返り、初めは何だったのか、この歩みは何だったのか、そして未来に向けて私たちはどのように進んでいけばいいのか、ということを考え、そのことを見極めることです。そこで、来年は軌道修正の年です。しかし、それは木の花ファミリーを指しているのではありません。私たちは、自然と共に生き、そのメッセージをいただき、生きる立場にいるからです。そろそろ人間たちの地球上での生き方は、軌道修正をしなければいけないところに来ているのです。この軌道修正は、世界観を広くして軌道修正しないと、これからの社会は成り立って行かないというところまで来ているのです。

そのような現状の中で、私たち木の花ファミリーは、今の方向に向かって、世の中の指針となるということです。ですから、私たちには、社会に軌道修正をもたらす自覚がいるのです。その自覚の元に、スケールの大きな世界観を生きたならば、私たちはとても大事な役割をしているということが分かります。そうすると、その自覚は一人ひとりにも必要ですが、全体を通して大きな役割があることが見えてきます。今、そのために世界の人たちと交流しているのです。今も、タイに二人そのメッセージを伝えに行っています。

そして、これから人類が進む方向性に対して、この暮らしがモデルとなります。私たち一人ひとりが大切な役割をしていくという自覚と誇りをもって、謙虚に自然から命をいただいているという自覚が大切です。自然に対する謙虚な姿勢は、これからの世の中の見本です。それがモデルとなるのです。生きることをいただいていくという精神です。それをもって、私たちは、そういった方向に社会が軌道修正するための役に立っていきましょう。

ここにはたくさんの人が共に暮らしていますが、それは一つの生き物です。私たちは、ひとつの生き物として歩んでいきますから一体です。それが今の世の中に足りないところです。それを示していきましょう。時間を積み重ねるたびに、日を積み重ねるたびに、月を積み重ねるたびに、季節が巡るたびに、年がたつたびに、私たちの役割は大きくなるのです。ですから、毎年毎年、その自覚を深め、高め、一緒にその役割を果たしていきましょう。みなさん一緒にやりましょう。

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そして、収穫感謝ということで言えば、昨年の収穫感謝祭にて、ジイジ(当時はいさどん)は以下のように語っています。

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私たちは自らが美しい響きを響かせ、美しい響きのものを生産し、そして健全に生きていく。それを社会に還元し、社会を健全にしていくのが私たちの生きる本当の目的です。

美しい生産物は、霊的な美しい心によってもたらされます。ならば、収穫感謝とは、物理的に生産をして、それが良い収穫であったかどうかということの前に、それに携わる私たちの心が美しいものであったかどうかを振り返ることです。畑や田んぼ、その他の様々な活動を通じて、この1年間、自らの心が美しい響きを発するものであったかどうか。1年を通して何が自分自身に定着したかということも、収穫なのです。そこを考えなければ、本当の収穫としての意味がないのではないかと思うのです。


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今年は再出発の年でした。今までのことを振り返ることで、初めは何だったのかを確認した年です。そんな今年1年を通して定着したことと言えば、この暮らしに対する確信と言えます。その確信をもって、木の花ファミリーは、これから軌道修正していく社会の指針となっていくのです。そのためには常に自分を振り返り心を美しくしていく必要があります。

僕個人で言えば、今年のはじめに堕天使ルシフェルの存在に触れてこんな文章を書いています。

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ルシフェルは悪い役割を自ら担いました。なぜそのような存在が必要だったかというと、人々が自分のことを見て来なかったからです。悪とは何かと言ったら、自分の都合を求めてきた人々に排除された存在です。人間は自分の都合を求めていろいろなものを切り捨ててきました。その結果、地球環境は悪化し、社会の分断と孤立が深まっています。その状態は偏りであり均衡を取り戻す必要があります。だから、人々が切り捨てているものが何かを教える存在が必要となるのです。役割としての悪。それは人々の姿を映すことで学びへと導いているのです。

人類はずっと正義の名の元に争ってきました。自分の行為を正当化し、争いを生み出している心の種を見ることはありませんでした。悪は自分の中にあるのにそれを認めずに外を改善しようとしてきたのです。それは自分の都合を求める心です。自分の都合を求めて争いが起き緊張しているのが今の人間社会と言えます。だから天に心を向けてすべてリセットするのです。そして「すべてをいただく心」でみんなが再スタートをすれば、全ての存在と出来事が認められ、今ある問題はすべてなくなっていくでしょう。なぜならいつでもどこでも、

何ももらってはいないのに、ありがとうございます。

ただ今があるだけなのに、ありがとうございます。

という心で生きていけるからです。


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そして今年の終りが近づく中で、僕は自分の中で両親と再会し、煩悩と再会しました(「僕と父と木の花ファミリー」や「煩悩のために努力をするけれども煩悩を求めない」を参照)。それは自分の原点との再会と言えますが、乗り越えるべき性質として、ある意味、「悪」としてきた性質との再会でした。例えば、高い目標、精神性を求めたとしても、それが何かを切り捨てるものであるならば、心に緊張が生まれ、いただく姿勢ではなくなっていきます。相反するものの統合、全体性を生きることが高い精神性であり、そして一人ひとりがそこに至ることで世界に調和と平和が広がるのだと思います。だからこそ、両親や煩悩との再会は僕にとってとても大切なものです。

例えば僕は、理解を求めるのではなく、他者や世界を理解していくことを心掛けています。だけれども、まるでコインが反転するように、自分の中から理解を求める心が湧いてくることがあります。その理解を求める心を無理に切り捨てようとしても、どこかで反動が起こり、二面性の表現となっていきます。

他者に理解を求める弱い自分を認め、そして受け入れることで癒し、他者に理解を求める必要をなくしていきます。その上で世界や他者を理解していく。自分の中にある揺らぎとゆるぎのない心、相反する性質をしっかりと見通し、統合させていくことが大切です。

だから僕が、この1年の成果としてこれから定着させるものは、自分の中の相反する精神を生き抜き、統合させる姿勢です。そんな姿勢を定着させ、みんなと一体となって、美しい調和の響きをこの世界に広げ、これから軌道修正する社会の指針となっていくのです。

今日、12月22日は冬至、光が最も弱い日であり、生命の死と再生のトキとも言われています。闇から光、死から生へと反転するこのタイミングは、生と死、相反するものの出会いであり、統合するタイミングとも言えます。

自我は自分視点という闇を生み出しますが、それはなくすものではなく、世界という光の中で溶かしていくものです。自我が世界に溶けることで、ヒトは、みんなの中でよみがえり生きていくのです。それがイエス・キリストが示したメッセージだと僕は思っています。

1999年に創った箱庭です。



煩悩のために努力をするけれども煩悩を求めない(2)

煩悩のために努力をするけれども煩悩を求めない」という文章を先日書きましたが、それは以下のような言葉で締めくくられています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

心を磨くこと、全体性を生きることは、煩悩をなしにすることではないのだと思います。煩悩と向き合うことでそれを全体性の中で生かしていくこと。その努力が自分の望みを全体の望みとし、自分としてはそれがいらなくなるのです。僕はそこへと向かって歩みます。

煩悩のために努力をするけれども煩悩を求めない。

そんな言葉が浮かんできました。それは、

平和のために努力をするけれども平和を求めない。

という姿勢ともなります。

人類は長らく平和を求めて争ってきました。それは求めている平和が、自分都合のものであったからで、平和を求めることが平和のための努力にはならなかったのです。煩悩も同じで、煩悩を求めると、それは自分都合のものとなり、きっとこの世界に争いや分断を生み出します。だけれども、求めることなく煩悩のために努力をすることは、全体の中で実現させることであり、それは全体性、そして平和や調和へと繋がっていきます。

煩悩のために努力をするけれども煩悩を求めない

そんなふうに生きることで、自分オリジナルの生の答を見出していこうと思っています。


☆彡 ☆彡 ☆彡

ここで煩悩のための努力をするのは誰かと言ったら、煩悩を離れて客観的視点を育んできた自分です。客観的な視点から自らの煩悩を眺め、煩悩を生かしていくのです。僕は煩悩を離れ、価値を積み上がることで、煩悩を抱える自分と価値を積み上げてきた自分という二面性を生み出してきましたが、この二面性も、煩悩を離れた客観的視点によって煩悩を導くことで生かされていきます。そしてきっとこれから僕の二面性は統合されていきます。

マワリテメクル

これは自転公転の二面性を表している言葉ですが、二面性を表す「テ」を経ることで、新しい「メ」が生まれ、自由を維持している(「クル」)というようにも読めます。

二面性ということで言えば、

煩悩をなしにするのでもなく煩悩に囚われるのでもなく

そんな姿勢が大切になると思っていますが、ここでジイジが昨年、流れについて語った言葉を思い出しました。それはこんな感じの言葉です。

☆彡 ☆彡 ☆彡


そこで、僕たちは何をしているのかというと、天の意志を探っている。どういう意向があるのかという流れを観ている。僕がよく皆に言う、頭を使えというのは、ものを偏らずに観て、流れを観ていくということ。何をもって正解として受け入れるかどうかというのはない。現象をもって真実とすべしだから、成ったことを受け入れていく。成ったことで、天の意志を探っていく。

☆彡 ☆彡 ☆彡

大切なのは、流れを観て天の意志を探っていくことです。だから「煩悩のために努力をする」とは、煩悩を満たすための努力ではなく、それが自分のもとにやってきた意味、天の意向を煩悩と向き合う中で見出すことなのです。

今、社会は様々な矛盾や混乱に満ちていますが、それは人間が自らの煩悩を満たそうとしてきた結果とも言えます。それも大きな流れの中にあって、銀河の夜明けという天体の動きにもそれは表されています。ですが、煩悩を満たすことばかりを考えていたら、そのことは見えてきません。煩悩を離れ、煩悩がもたらすものを流れの中で見ていくことで、天の意向を知っていく。その時、人類がこの地上に降ろされた意味を見出せるのだと思います。だから僕は自分一人分、そんなふうに生きていきます。




煩悩のために努力をするけれども煩悩を求めない


ジイジ:
ブッダ私に答を下さい。私は今煩悩の流れの中で悩み苦しんでおります。

ブッダ:
答は私の中にはない。お前の進む道にある。人は煩悩に悩み、煩悩に苦しむ、そして煩悩により救われる。それは煩悩がその人間の答であるから。次の答も煩悩によって与えられる。その人間の生き方が一つの問題であり、その生き方が答である。すべての答はその生き方の最後に現わされる。生きるというのは肉体の死ではなく魂の生滅で終りを迎える。一回の肉体の生滅は次の肉体と魂の縁を生む。そして煩悩の続く限り、限りなく肉体から肉体へと悩み苦しみ魂は生き続ける。煩悩のあるかぎり。私にはお前に答えてあげられる答はないのです。お前の生き方と私の生き方が違うように、お前は自分の生き方の中でその答を観、そして、その答からお前の生き方を選び出し、この世の中でたった一つしかないお前の答を得るがよい。その答はお前が今一番強く望んでいる答になるでしょう。強い信念を持ちなさい

☆彡 ☆彡 ☆彡

上記は昔、ジイジとお釈迦様が交わした問答です。僕はここ数年、煩悩を手放そうとし、煩悩を離れて自分の価値を積み上げてきました。その歩みについてはこのブログの様々な投稿に書かれています。ですが、煩悩が完全に消え切ることはなく、その結果、煩悩を抱える自分と価値を積み上げてきた自分という二面性が生まれることになりました。

思えば煩悩は自分の一部です。それを切り捨てることは自分の一部を切り捨てることになります。煩悩を抱える自分を切り捨てるのではなく、価値を積み上げてきた自分と統合すること、それが二面性を乗り越えていくことであり、僕オリジナルの人生の答となる。今はそう思っています。

もし悟りが煩悩を切り捨てることならば、すべてのヒトは同じ状態へと至ることになり、そこにオリジナルな物語がなくなっていきます。

人は煩悩に悩み、煩悩に苦しむ、そして煩悩により救われる。それは煩悩がその人間の答であるから。

煩悩により救われ、煩悩が答となる。それはヒトが自らの煩悩と向き合い見通すことで全体の中で生かされていくということであり、そこに個性豊かな人々が繋がる世界が生まれるのだと思います。そこへ至る道筋は3年前の七夕にジイジが語った以下の言葉に表されています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

常に意識を全体性に持っていく必要があります。あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?それが重要です。個人的願望が全体性と共通していればいいのです。例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、全体性と個人は本来、共通していることなのです。ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

心を磨くこと、全体性を生きることは、煩悩をなしにすることではないのだと思います。煩悩と向き合うことでそれを全体性の中で生かしていくこと。その努力が自分の望みを全体の望みとし、自分としてはそれがいらなくなるのです。僕はそこへと向かって歩みます。

煩悩のために努力をするけれども煩悩を求めない。

そんな言葉が浮かんできました。それは、

平和のために努力をするけれども平和を求めない。

という姿勢ともなります。

人類は長らく平和を求めて争ってきました。それは求めている平和が、自分都合のものであったからで、平和を求めることが平和のための努力にはならなかったのです。煩悩も同じで、煩悩を求めると、それは自分都合のものとなり、きっとこの世界に争いや分断を生み出します。だけれども、求めることなく煩悩のために努力をすることは、全体の中で実現させることであり、それは全体性、そして平和や調和へと繋がっていきます。

煩悩のために努力をするけれども煩悩を求めない

そんなふうに生きることで、自分オリジナルの生の答を見出していこうと思っています。


12月7日射手座新月の日の太陽です(^-^)


僕と父と木の花ファミリー(2)

僕と父と木の花ファミリーに書いたように、僕はつい最近、自分の中で両親と再会する体験をしました。それはこんな感じです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

近くで暮らしていた頃、僕はずっと「両親は僕が幼児のようであることを望んでいる」と思っていました。そうすれば、僕の世話を思う存分に出来るので。そして、子どもの頃の僕のイメージに固執していると思っていました。僕の世話をしたいという意味で、そういう面は確実にあったと思うのですが、今思うと、彼らの僕への愛着は理屈を超えたもので、だから、僕に対するイメージも特にはなくて、僕がどんな人間でも構わなかったのだろうと思います。そして彼らの僕に対する愛着は彼らの現実で、思うように伝わらないことで苦しんでいたんだろうなとも思います。そういう愛着を誰かに向け、苦しむことは僕にもあって、そう思ったトキ、自分の中で両親と再会したように思えました。

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僕の両親は、僕の想いとは関係なく、僕に愛着を持っていて、そこには共有できるものがありませんでした。そして、僕が大きくなるにつれて、実際の心の距離はどんどん膨らんでいて、そこには冷たい空気が流れていまいした。僕と両親とでは、見ている世界が違っていました。両親の僕への愛着は絶対的でしたが、そういう現実を直視することはなくて、感情の交流という意味では貧しいものでした。そして、それは僕がずっと抱えてきた理屈を超えた愛着にも言えることで、現実の中で他者と共有できる価値のない愛着は彩りがなく貧しいものです。そして、それが僕の人間性の原点となっています。

僕の中での両親との再会は、僕の人間性との出会いであり、それは痛みを伴いましたが、現代社会の反映でもあり、そこと向き合うことが大切だと思いました。人は、便利な世の中を作ることで、好き勝手に想いを持つことが出来るようになりましたが、その結果、社会には分断と孤立が溢れています。物質的には豊かになりましたが、人々の関心は欲得に集まり、精神的にはとても貧しい世界となっています。自分の願いを叶え、何かを獲得することに価値が置かれ、他者と共有する喜びは蔑ろにされています。そういう世界を反映して自分の人間性があり、だからこそ、自分の人間性にメスを入れることは世界にメスを入れることになるのだと思っています。

木の花ファミリーは、すべてを共有することを心掛けているコミュニティです。すべてを共有した上で調和して暮らすためには、一人ひとりが自分の立場を離れ、みんなで共有できる価値を育む必要があります。そのような心を育むことで、分断や孤立へと繋がる貧しい想いを超えていくことが出来るのです。

「本当はそういう暮らしが大切なのかもしれないな。今の社会は全然違うけれども。」

僕を木の花ファミリーに送る道中で、父は僕にそう呟きました。その瞬間、僕らは大事を共有し、心の距離は近づきました。物理的には離れ、それぞれ全く別の道を歩んでいますが、お互いを尊重することで心は近づいているのです。

人は、宇宙や自然の仕組みの中で生かされている。

それはすべてのヒトが共有出来る真理です。そしてそれは「ひとつならりのいのち」を表現していて、この世界の豊かさは循環の中で表現されます。その真理に基づき、みんなが共有できる価値を育んでいこうと思っています。


今朝のお月様。昨日はふたご座満月でした。

僕と父と木の花ファミリー

11月のはじめ、ジイジはこんなことを話していました。

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テレビは今の社会情勢を知るには、すごい情報源だよね。ここにいていろいろなところのことが分かるのだから。でもマスメディアは自分たちの都合のよいニュースを流すのでその点は注意をする必要がある。

この前テレビで、インターネットのいろいろな問題について取り上げていたんだけれども、インターネットの世界では、何か一つのある情報が入ると、それに酔ったように人々は反応して、そればかりを検索するようになる。今のインターネットは何かの情報を検索すると、そういう情報が自動的に集まるようになっている。そうすると、そのような情報ばかりに接して、同じような人たちが集まるようになってくる。集まって、「世の中みんな自分と同じ考えだ」というようになって自分が正しいと思うようになる。ある大学の先生はこのようなことを研究して、何か強い意見があるとみんなが集まってそこに偏った集団が出来る危険があると言っている。そういう例としては、ヘイトスピーチやバッシングなどがあるよね。

それで別の研究者は同じ現象を見て、別の危惧をしている。ネット上では、みんながそれぞれ自分の考えを持っていて、例えば人を批評しても反論が来ない。そうすると相手がどのような感情を持っていて、実際がどうなのかも関係なく、自分の感情でどんどんどんどん主張できるから、自分の考えが暴走していくことになる。それで一方的に言う人がどんどん増えてきて、そこに偏った人たちが集まっていく。そうすると逆に、共通の生き方がなくなっていって、万人に共通したモラルや価値観を持って人々を束ねていく。そういうことが出来なくなってバラバラとなっていく。

片一方では、強い意見があると人が集まって偏ってしまうという現象が起きて、その傾向は逆に、本当に信頼すべき正しい意見がなくなり、バラバラの世界となって表れている。矛盾する問題ばかりが起きているのが今のインターネット社会。そのことに対して現状では打つ手がない。だけれども、ささやかだけれどもこういう世界を創ればいいという答え、それを示す必要がある。

研究者の多くは、自分は賢くて、自分は正しいという立場から意見を述べている。けれども、その前提になっているのは、金や社会的評価が絶対の社会、その中で切り捨てられる人間の本質が見えていない。ものが見えているようで、全く見えていない状態と言える。すごい賢い人たちが集まってすごいバカな世界を創っている。

そこでどうしたらいいかと言ったら、自分たちが生きているではなく、生かされているということを知ること。どんなことをしても時間の流れはどうすることも出来ないし、老いていく自分を止めることは出来ない。人は、宇宙や自然の仕組みの中で生かされている。だから自分が賢くて生きているという錯覚を手放さなければならない。でも今の人間はそれがなかなか出来なくなっている。

人間が自然の恩恵に感謝して、真剣に神経を張り巡らせて生きていた時代、そういう時代から、人間は賢くなって、この世界から不都合なものをなくしていって、気軽に言いたいことを言える世の中になっていった。その結果、一番大事なもの、共通の価値、共通の生き方を失っている。今の社会は人間が賢くなった結果、最も愚かしいところに来ている。

共通の価値観の元に集える場所がなくなったしまった今、そういう場所を生み出しているのがこの場と言える。それはささやかな動きだけれどもとても大切なこと。現代のメディアの情報から、その奥を見ると、この暮らしの大切さの確認となる。

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ここで話は変わって。

最近、自分の中で両親と再会する経験をしました。父親は、「あなたの未熟もみんなに役立つ」にも書いている通り、僕に対してとても強い愛着を持っていました。そして、母親は、表面にはあまり出しませんでしたが、同じように強い愛着を僕に対して持っていました。そんな彼らの気持ちに対して、僕は冷めた視点で眺めていました。彼らは実際の僕を見ているわけではなくて、彼らが創り上げたイメージに愛着していると感じていたからです。それで昔の僕は、実際の自分を見て欲しいと感じていました。

木の花ファミリーに移住する時、両親は大反対をしました。それは木の花の暮らしに対する反対ではなくて、ただただ僕が離れていくことに対する反対でした。それでも僕の意志が固くどうすることも出来ないと分かった時、両親は僕の引っ越しを手伝ってくれました。そして父親は、車に荷物を積んで僕を木の花ファミリーまで送ってくれたのですが、その時、ぽろっと一言、「本当はそういう暮らしが大切なのかもしれないな。今の社会は全然違うけれども。」と呟きました。その一言はとても印象に残っています。

近くで暮らしていた頃、僕はずっと「両親は僕が幼児のようであることを望んでいる」と思っていました。そうすれば、僕の世話を思う存分に出来るので。そして、子どもの頃の僕のイメージに固執していると思っていました。僕の世話をしたいという意味で、そういう面は確実にあったと思うのですが、今思うと、彼らの僕への愛着は理屈を超えたもので、だから、僕に対するイメージも特にはなくて、僕がどんな人間でも構わなかったのだろうと思います。そして彼らの僕に対する愛着は彼らの現実で、思うように伝わらないことで苦しんでいたんだろうなとも思います。そういう愛着を誰かに向け、苦しむことは僕にもあって、そう思ったトキ、自分の中で両親と再会したように思えました。

この理屈を超えた愛着は何なんだろうなと思います。現実の姿と関係がないという意味では、これも一つの幻想で、絶対的なものという感覚に酔いしれているのではないか、そんなふうにも思えます。

ここで話は最初に戻って。

インターネット社会では、人々は好みの情報に酔いしれ、偏っていく傾向があるのですが、それは現実と離れた幻想の世界を生み出していきます。一人ひとりが自分の見ている幻想に愛着を持つことで、社会からは、共通の価値観が失われていきます。今、世界には、他者とは共有できない愛着が溢れているように思えます。それは、人間がこの世界から不都合なものをなくしていった結果、好き勝手な思考が出来るようになったためで、その過程で、共通の価値、共通の生き方が蔑ろにされてきたのです。

僕の両親は、僕の想いとは関係なく、僕に愛着を持ち続けていました。そこに共有できる価値はありません。それでもその想いは両親の生きがいでした。理屈を超えた愛着。それは否定するものではありませんが、誰の幸せにも繫がりません。そして、これは愛着であって愛ではないと思っています。

愛とは、客観性であり、共通の価値であり、すべての人を幸せに導くものです。それは、道理に基づき、理に適ったものです。僕を木の花ファミリーへと送った時の父の言葉。僕は、この言葉から初めて父に「真実を見通す目」を感じました。そして、そこに父の僕に対する愛を垣間見ました。そこには共有できる価値観、客観性があります。

今年の2月、祖母がなくなったため、実家に帰って両親や親戚と会ってきました。親戚たちの僕に対する愛着は強く、多くの人が「いつ戻ってくるの?」と尋ねてくるのですが、両親がそんなことを言うことはありません。そして、すでに退職している父は、毎朝、ジョギングをして汗をかき、一人で車に乗っていろいろなところに出掛け、近くに住む妹家族との交流を楽しみながら健康的な生活をしているようでした。そこに僕は必要ないでしょう。

両親の中に僕に対する愛着がなくなったのかどうかは分かりません。ですが、ほとんど会うことがなく別々の人生を生きる今、それを確認する必要はありません。お互いがそれぞれに相応しい道を歩んでいます。

「本当はそういう暮らしが大切なのかもしれないな。今の社会は全然違うけれども。」

父がそんなことを呟いたのは、あれが最初で最後です。それは一瞬の出来事だけれども僕らは大事を共有しました。それは世間一般の暮らしを楽しむ父の、心の奥底に潜む真実の声だと思っています。

人は、宇宙や自然の仕組みの中で生かされている。

それは客観的事実であり、心を開けば、みんなが共有できる事実です。僕は木の花ファミリーのみんなと、客観性の元に共有出来る価値を積み上げていきます。それは僕だけの志ではなく、両親の心の奥底に眠る志であり、きっと目覚めれば、全人類共通の志ともなるものです。

だから僕はそんなふうに生きていく。

それは天との約束、この世界との約束、父や母との約束、木の花のみんなとの約束、そして自分との約束です。

木の花ファミリーのみんな@サツマイモ収穫

世界は、まわりてめくる、想いも・・・

1週間ぐらい前の大人ミーティングにて、僕は「あれから3年、今の僕の到達点(2)」をシェアしました。その時、ジイジはこんな話をしてくれました。

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今、木の花ファミリー憲章の改定作業を進めていますが、木の花ファミリー憲章は守るべき答えではありません。今まで、様々な宗教が経典を答えとしてきていますが、答えとすることで教えとして固定されます。そこには進化(深化)がありません。変化変容がこの世界の法則であり、本来すべてのものは進化(深化)していくものです。だから、どんなものでも教えとして固定してはいけません。

木の花ファミリー憲章で示しているのは、指針です。心構えと言ってもいいでしょう。大切な指針、心構えを現時点の視点から表現しています。表現は未来にいけば進化(深化)していくことでしょう。だけれども、大切な指針は変わりません。

今、読まれた文章にはみんなが適用できる大切な指針が多く含まれています。こういう文章を然るべきタイミングでシェアし、確認することが大切です。

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大切な指針、心構え。

例えば、「あれから3年、今の僕の到達点(2)」では、こんな文章を書いています。

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マワリテメクル

カタカムナの5首に含まれる一節ですが、これは自転公転の二面性を表していると言われています。一文字ずつ読み解いていくと、「マ」は自転公転の運動によって区切られた空間でありこの世界そのものと言えます。そして現象が生まれる縁(ふち)が「ワ」であり、そこから離れていく動き「リ」により、二面性「テ」が「メ」ばえ、それが自由「ク」を維持している「ル」ということ。つまりそれは、相反するものの存在により絶えず新しいものが生み出されるこの世界の法則を表しています。

「神さま・・・」と対象を固定し呼びかけることは自我を生むことですが、自我があるからこそ認識が生まれます。神さまが自己認識のために完全なる光から闇を分けたように、人は自らを他者から分けることで自分自身を認識します。分けることは分かることに繋がりますが、認識を深めていくと、すべては一つ、分けられないということが見えてきます。分けることにより分けられないということが見えてきて、すべては自分の認識を超えていること、分からないということが分かるのです。

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自転公転を繰り返しながら、太陽と共に宇宙を旅している地球は螺旋運動を描いています。螺旋運動も二面性を表していて、ループをしているようで常に新しいところへと進んでいます。

自然界を見ると、毎日、日が昇り朝が来て、日が沈み夜が来ます。そして、毎年、春夏秋冬を繰り返しています。それは一見同じことの繰り返しのようにも見えますが、自然界は、毎日、そして毎年違った景色を生み出しています。



成住壊空(じょうじゅうえくう)

誕生・維持・破壊・空

天体を動く宇宙の星々、そして大地を流れる川やそびえる山々、それらすべて生命であり、誕生・維持・破壊・空を繰り返しています。ですが、それは同じことの繰り返しではなく、常に新しいところへと進んでいます。人々の暮らしも同様で、同じことの繰り返しように感じたとしても、そこには必ず新しい要素があり、それを掴むことで人は変化していきます。

そして、分かるためには分ける必要があります。自分の中から湧き上がる想い、浮かんでくる想い、日々、様々な想いに出会いますが、それらを本当の意味で分かるためには分ける必要があります。想いから距離を取って、想いを表現しながらも、離れたところから眺めて、それがどういうもので、何をもたらすかを知っていくのです。その時、想いに対する理解が生まれます。

それがどんな想いであれ、囚われ、それに執着したら、その瞬間に想いは自我の中に閉じ込められます。想いを狭い自我の枠に閉じ込めることで、想いは変化変容を本質とする宇宙の法則から外れ、その本質を失っていくのです。その時、その想いは不調和なものとなっていきます。

すべての想いは元を辿れば一つです。その視点に立てば、すべての想いの中に善意を見出すことが出来ます。善意により繋がり愛が芽生え、調和を生み出す。想いはそんな表現となっていきます。それを邪魔するのは自我の未熟であり、それを超えるために想いから離れ、想いを見通すのです。想いから離れることで想いを理解し、想いを理解することで、世界は一つになります。

それを僕は以下のように表現しました。

分けることは分かることに繋がりますが、認識を深めていくと、すべては一つ、分けられないということが見えてきます。分けることにより分けられないということが見えてきて、すべては自分の認識を超えていること、分からないということが分かるのです。

相反するものの存在により絶えず新しいものが生み出されるこの宇宙。想いを理解した上で表現した時、それはきっとそのような宇宙の表現となっていきます。

世界は、「まわりてめくる」、想いも、「まわりてめくる」のです。



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